前原誠司、斎藤アレックスの所属政党を変更しました(5/16)

【翻訳】アルフレッド・ミッチェル・イネス『貨幣とは何か?』①

MMT翻訳
この記事は約24分で読めます。

現代貨幣理論MMTを支える理論の1つに、アルフレッド・ミッチェル・イネスの信用貨幣論『貨幣とは何か?』という論文(1913年)があります。この…

原文を翻訳しました

次のように6つに分け、大まかにページ数を振っています。

  1. ギリシャ・ローマの貨幣史(P377~P382)
  2. 欧米の貨幣史(P383~P390)
  3. アダム・スミスの誤謬(P391)
  4. 債権と債務の基本(P392~P394)
  5. 債権と債務の歴史(P394~P401)
  6. 結論 (P402~P408)

この記事はパート①を掲載しています。

※1 参考・翻訳した文献The Banking Law Journal, May 1913
※2 個人の翻訳である点、何卒ご了承ください。翻訳上の誤りや分かりづらい点は、訳者に責があります。
※3 原文のイタリック体の箇所は下線表記、””箇所は「」表記

【参考】10円玉と100円玉

10円玉と100円玉の重量は、5g弱です。

記載データは、硬貨を左から並べた順。

10円玉 100円玉(表)
年代:1959~ 1967~
場所:日本  

造幣:造幣局
単位:円
重量(g):4.5 4.8

このイラストのような形で、本文中に歴代硬貨の画像が登場します。

本文 (377~P382)

近代の政治経済学が基づく基本的理論は、この通りである。

  • 人類は、過去の原始的な状態と現在の未開社会において、物々交換で暮らしてきた。
  • 生活が複雑になるにつれ、物々交換は、商品を交換する手段として最早事欠くようになり、共通の合意によって、特定の商品が広く受容されているモノに固定化され、その結果、誰もが皆、生産するモノや提供するサービスと引き換えに受け取り、今度は各自が欲しいものと何でも引き換えに他人へ公平に手渡すことができる。
  • こうして、この商品は「交換の手段と価値の基準」になる。
  • 取引は、「貨幣」と呼ばれる中間商品と商品の交換である。
  • 数多くの商品が、様々な時代や地域で、交換手段としての役目を果たしてきた。ー畜牛や鉄、塩、貝殻、干した鱈(たら)、煙草、砂糖、釘など。
  • 次第に、複数の金属、金、銀、銅、特に最初の2つが、他のどの商品よりも、その固有の属性によって目的に適うと見なされるようになり、これらの金属が、草創期に共通の合意によって、唯一の交換手段になる。
  • 純度を把握したこれら金属の内、1つの固定重量が価値の基準になり、重量と品質を保証するため、独自の署名付きで刻印される金属片を発行することが政府に課された当然の義務となり、その鍛造は厳罰に処された。
  • 中世の皇帝や国王、君主、その顧問達は、硬貨の品質を落とすことで人々を騙そうと互いに競い合ったため、農産物と引き換えに金や銀の確かな重量を獲得していると思った者は、実は少なく手に入れているに過ぎず、この状況は鋳貨が品質面で低下し、重量面で軽量化するに比例して、貨幣の価値が下落し、それに続いて物価が上昇する中で深刻な弊害を生み出した。
  • 金属の消費を節約し、途切れることがない運搬を防止するため、近代で「信用」と呼ばれる機構が発達し、それによって、取引の都度、金属の一定重量を手渡す代わりに、それを執り行う保証が与えられ、良好な環境の下で金属自体と等しい価値を持つ。信用は、金の代替品と呼ばれる。

P378(2/32ページ目)

このような理論に対する信頼が、経済学者の間で甚だ広く行き渡っているため、証明を大方必要としない金言と見なされるようになり、その拠る所の乏しい史実的根拠と相応の批判的考察が欠如していることは、経済学の業績で最も目を引いている。

概して言うと、この教義はアダム・スミスの発言に基づくと言われ、ホメロス(Homer)やアリストテレス(Aristotle)の数節と太古の土地を旅した者の書物で裏付けられている。

ところが、商業史と貨幣学の分野における現代的調査、特にバビロニアで最近発見されたものは、以前の経済学者が入手できなかった大量の痕跡に光をもたらし、その観点から、この理論はどれ1つ取っても、史実的根拠の堅固な基盤に立脚していないと最終的に表明される可能性がある。―実際、それは虚偽である。

まず始めに、近代で商品を貨幣として利用した、2つの最も一般に引用される事例を巡るアダム・スミスの誤謬と併せて、具体的に、スコットランドにある村の釘とニューファンドランドの干した鱈の事例は既に暴露され、一方は、1,805年とかなり昔の『国富論』プレイフェア版、他方は、1,832年にフィラデルフィアで刊行されたトーマス・スミス(Thomas Smith)の『通貨と銀行業務に関する小論(an Essay on Currency and Banking)』である。

この著者達のどうやら誤りがない説明に向き合うと、アダム・スミスの誤謬が人々の記憶に長く残り続けているのは不思議である。

スコットランドの村で、販売業者は、釘製造業者に原料と食料を販売し、彼らから負債より償却される価値を有する釘の完成品を購入した。

貨幣の利用は、現在の私達と同じように、ニューファンドランド島の沿岸と浅瀬を度々訪れた漁業者にもよく知られたが、単に望まれなかったため、金属の流通貨幣は利用されなかった。ニューファンドランドの漁業が誕生して間もない頃、定住するヨーロッパ住民はいなかった。

漁業者は、漁獲期だけそこへ出向き、漁業者でない者は、乾燥した魚を買い付け、漁業者に生活必需品を売る交易商人達である。

漁業者は、捕獲した物を交易商人達にポンドやシリング、ペニーの市場価格で売り、見返りに帳簿上の債権を得て、必需品の代金に充てた。交易商人達による支払不足額は、イギリスやフランスの為替手形で支払われた。

少し考えてみると、主要な商品は貨幣として利用できないことを示唆している、というのも仮説に従うと、交換の手段が共同体の全成員から分け隔てなく受容されるためである。

したがって、漁業者が必需品の代金を鱈で支払う場合、交易商人は鱈の代金を公平に鱈で支払わなければならず、明らかに馬鹿げている。

アダム・スミスが確かな通貨を発見したと信ずるいずれの例も、実際に見つけたのはー単に信用である。

P379(3/32ページ目)

次に再度、負債と税金の支払いに、穀物やたばこ等を受領可能にした種々の植民地法に関して、これらの商品は、他のモノ全ての価値が測られる観点から、1商品の経済的価値に基づく交換手段だった訳では決してない。

それらは、名目の市場価格で受け取られる必要があった。私が知る限り、こうして受領されるようになった商品は、どんな言葉の意義においても、交換の全般的手段であるという想定が一通り為される根拠もない。

その法律は、より通例の手段を欠く状態で、必要に備えて己を解放する手段を債務者達の手元に押し込むに過ぎない。だが恐らく、街から遠く離れた地方地区で、簡便な伝達手段がない場合を除くと、そうした必要性が頻繁に生じたとは考えられない。

このテーマで生じた誤解の原因は、貨幣の利用が、金属貨幣の物理的存在のみならず、価値の金属的基準すら必ずしも必要としないことを理解する難しさである。

私達は、金の明確な重量というドル貨やソヴリン金貨が、1ドルや1ポンドのお金と対応する制度に順応しているため、ソヴリン金貨1枚を伴わない1ポンド、若しくは明確な重量を把握している金貨や銀貨を1枚も伴わない1ドルが存在することを俄かには信じられない。

しかし、歴史を通じて、商業貨幣の単位名称、通称「計算貨幣」に対応する価値の金属的基準といった証拠は無いばかりか、硬貨の価値や金属の重量で決まる通貨単位は少しも無く、現代に相当突入してからも、通貨単位とどの金属との間にも固定的関係は存在せず、事実、価値の金属的基準のようなものは全く存在しなかった圧倒的な証拠もある。

このような論文1つの範囲内で、この言説が基づく膨大な根拠を提示するのは、とても成し得ない。成し得ることは、筆者が間もなく公刊することを望む詳細な研究に向けて、さらに主題を追究したい読者に委ねるため、数年に及ぶ研究から引き出した筆者の結論の要約を提示するだけである。

西洋世界の最初期に知られた硬貨は、古代ギリシャのもので、その最古のものは小アジア(Asia Minor)沿岸の新開地に属し、紀元前6~7世紀に遡る。

エレクトラム(表/裏)※1
年代:紀元前 600~550

場所:小アジア
単位:スタテル
重量(g):14.28

金や銀のモノもあれば、銅のモノもある一方、最も古いのが金と銀の合金エレクトラム(electrum)として知られている。

こうした硬貨の寸法と重量の変動は無数にあるため、総じてどの2つも似ず、価値のどんな表示も記載するものがない。

多くの学識ある著述家、バークレー・ヘッド(Barclay Head)やレノーマント(Lenormant)、バズクエズ・クエイポ(Vazquez Queipo)、バベロン(Babelon)は、様々なギリシャ国家の価値基準を突き止めるため、こうした硬貨を試しに分類した。

ただし、各々に採用された制度は異なっている。制度に付与された重量は、数多くの硬貨から計算された唯の平均重量であり、硬貨の重量は、その平均値におおよそ接近している。

それから、どの制度にも適合させることができない硬貨が沢山ある一方、その断片と思しき硬貨の重量は、帰属すると思われる制度単位の重量と合致しない。

エレクトラム硬貨に関しては、私たちに知られる最も古い硬貨であり、その配合は非常に特別な習わしで変化している。

金の60%以上を含有するものがある一方、銀の60%以上を含有する同一の起源として知られるものもあり、この両端の間で合金の度合いが悉く存在するため、確固たる内在価値を凡そ持ちそうにない。

P380(4/32ページ目)

著述家は1人残らず、古代ギリシャの銅貨が引換券であり、その価値が重量に依存しない点で合意している。

ドラクマ銀貨(表/裏)※2
年代:紀元前 540~520年
造幣:アテネ
単位:ドラクマ
重量(g):4.14

確実に分かっている一切は、様々なギリシャ国家が、同じ通貨単位スタテルやドラクマ(stater、drachma)等を用いたのに対して、こうした単位の価値は、国家によって大きく異なり、それらを比較した値が一定でない。

―現代的に言うと、相異なる国家間の為替相場が時期によって変動した。実際、金属的基準の理論が基礎とする古代ギリシャの史実的根拠というものは存在しない。

アス青銅貨(表/裏)※3
年代:紀元前 269~266年
造幣:古代ローマ

単位:アス
重量(g):270

ローマの古代硬貨は、ギリシャの硬貨と違い、価値の特徴的な目印を有しており、その最も顕著な点は、重量の極端な不規則性である。最古の硬貨は、アスとその断片であり、アス(As)は12オンスに分割され、元来銅の1ポンド重量だったと昔から言い伝えられている。

ローマ・ポンドの重量が、約327.5gであるにも関わらず、ローマ貨幣鋳造所の偉大な歴史家モムゼン(Mommsen)は、この重量に迫る現存の硬貨(その数が非常に多い)は皆無な上、鉛で重くして合金化されたと指摘した。

そのため、その最も重いものですら、やはり最も古くとも、2/3ポンド以上の銅を含有していないの対して、少額の硬貨は、より軽量なアスに基づいていた。

記載データは、硬貨を左から並べた順。寸法の比較は不可。

3枚のアス青銅貨(表)※3
年代:230~226 215~212
   169~158
(全て紀元前)
造幣:古代ローマ
単位:アス
重量(g):217 104 16

早くも紀元前3世紀には、アスが4オンス以下まで下落し、紀元前2世紀末までには、重量が0.5オンスかそれ以下しかなかった。

ここ数年来、新しい理論がヘーバーリン博士(Dr. Haeberlin)によって発展を遂げ、彼によると、アスの当初の重量は、ローマ・ポンドではなく、彼が「オスカン(Oscan)」と呼ぶポンドに基づき、重量が約273gしかなかった。

そこで、様々な単位名称の数多ある硬貨の平均値を取って理論を証明しようとした。成る程、彼が仮定した基準と極めて接近して近似した平均重量に到達しているが、彼が平均値を求めた出所の硬貨を見てみよう。

重量が1ポンドである筈のアスは、実際は208gから312gの両端の間で重量のあらゆる濃淡を伴って変動している。

ハーフ・アス、136.5gの筈である、は94~173gの重量がある。

1/3アス、91gの筈である、は66~113gの重量があり、1/6アスは32~62gの重量があり、それから残りの物等。

しかしながら、これはへ―バーリンの理論を容認し難いだけでなく、そもそも余りに有りそうになく、乏し過ぎる史実的根拠を信頼できるとして当てにしている。そうした広範な変動幅を示す硬貨に則った平均基準は、説得力を持たない。

硬貨は金塊としての内在価値より大きな名目レートで流通する可能性があり、現に流通するにせよ、内在価値を下回るレートでは流通できない。

この場合、後続の歴史が豊富に裏付けている通り、ただちに溶融され、金塊として消費される、すると何故、そうした膨大な変動を示す硬貨重量の基準といったものを用いるのか?

どうして製造者の裁量で、ある時に2フィート6インチ、ある時に3フィート6インチであるヤード基準を用いるのか?あるいは、2/3パイントの時もあれば、1.5パイントの時もあるパイント基準を用いるのか?

P381(5/32ページ目)

へ―バーリンが、その後に続くアスの圧下について、最初はオスカン・ポンドを半分まで、その後時が経つと共に少しずつ沈下することを説明するための独創的な仮説に立ち入る紙幅は、ここではない。

私達の歴史家は双方とも、紀元前約268年から銅貨が単なる引換券であり、硬貨の軽重を問わず、無差別に流通した点で同意している。この時まで、硬貨の価値変動に関係なく、アスは固定された通貨単位である。

ところが、これ以降、幾つかの単位や「計算貨幣」が導入されると、事態は複雑になり、それらは同時併行で供用され*1、セステルス(Sesterce)やヌムス(Numus)は、そう呼ばれる時もある、昔のアス・アエリス・グラビス(As Aeris Gravis)やリブラル・アス(Libral As)と等価の銀貨で描かれた。

首元のXは、10アスを意味する。

ディナリウス銀貨(表/裏)※4
年代:紀元前211年
造幣:古代ローマ
単位:ディナリウス
重量(g):4.55

新たなアスの価値は、古いアスの2/5に相当し、次にディナリウス(Denarius)の価値は、新しいアスの10倍、故にリブラル・アスの4倍に相当し、セステルス(Sesterce)のように銀貨で描かれた。

首元のⅡSは、2.5アスを意味する。

セステリティウス銀貨(表/裏)※5
年代:紀元前 211年

造幣:古代ローマ
単位:セステルティウス
重量(g):1.05

セステルスの加工は間もなく廃止され、銅や真鍮の引き換え硬貨として、ずっと後になって断続的に姿を現しただけである。

しかし、公式の計算単位として、紀元後3世紀のディオクレティアヌス帝の統治まで持続し、こうして何百年もの間、計算単位は、多くの浮き沈みを経験した鋳貨と関係なしに不変であり続けた特筆すべき事実が得られている。

全般的な統治として、例外があっても、ディナリウス銀貨は、合金を約10%にしたネロの時代まで良質な金属だった。

記載データは、硬貨を左から並べた順。寸法の比較は不可。

3枚のディナリウス硬貨(表)※4
年代:67~68(ネロ) 98~99 

  193~211(全て紀元後)
単位:ディナリウス

金属:銀貨 銀貨 銅貨
重量(g):3.98 1.97 2.91

その後に続く皇帝下で、硬貨は、少量の銀を含む銅であるか、2つの薄い銀のプレートに挟まれた銅の芯材で作られるか、刻印の道具だけで他の銅貨と識別可能な単なる銅貨であるか、いずれかになるまで合金の分量は絶えず増加した。しかし、それらは銀と呼ばれ続けた。

ディナリウス銀貨が、その名目価値に内在的に値するか否か推測の域を出ないが、50年後、モミーン(訳者補足:原文Mommeenは、既出のモムゼンMommsenを誤記した可能性あり)によると、硬貨の法定価値は、その実質価値より1/3大きく、金貨は当初、その内在価値を遥かに上回るレートで導入された。

硬貨の劣化にも関わらず、しかしながら、ディナリウスは、計算貨幣としてセステルスと初期の関係を保ち、セステルスが消滅した後も長い間、単位であり続けた。

金貨は、神聖ローマ帝国の時代までほんの僅かしか利用されず、全般的な統治として、金属が良質に維持されたが、平均重量が時が経つにつれて減少し、重量の変動は同治世下でさえ、他の治世下と同じように極めて顕著である。

アウレウス金貨(表/裏)※6 
年代:紀元後270~275年
発行主:アウレリアヌス

単位:アウレウス
重量(g):5.58

例えば、硬貨はどの1枚も重量が最も近いものとの間に0.5g以上の差がなく、アウレリアヌスの治世下では、金貨の重量が3.5~9g、ガリエヌスの治世下では、0.8~約6.75gである。

記載データは、硬貨を左から並べた順。

3枚のアウレウス金貨※6(表)
年代:紀元後 260~268年
発行主:ガリエヌス

単位:アウレウス
重量(g):2.34 4.01 6.24


*1 通貨単位が同時に2つ以上ある現象は、後の時代では一般的である。

P382(6/32ページ目)

貨幣本位が、硬貨の重量や配合される材料から完全に切り離されたものである、というここで得る以上に強力な根拠は、他では凡そあり得ない。何世紀もの間、通貨単位が同じ状態を維持している間、これらは常時変動した。

ローマの貨幣に関して覚えておくべき重要な点は、変造された硬貨は、紛れもなく引換券であったが、金や銀の固定重量を体現したという疑義は皆無である。

国民は硬貨と引き換えに、金や銀を手に入れる権利を持たなかった。それらは皆、公平な法定通貨であり、拒むことは違法だった。政府が金の公定価格を固定しようと尽力しても、異常な高値でのみ入手できた事を示す十分な史実的根拠が有る。

古代ガリアとイギリスの硬貨は、印字と配合どちらも多種多様であり、ギリシャやシシリア、スペインで流通した硬貨をモデルに造られたため、たとえ部族の首長に発行されたと見られる物があっても、外国人や恐らくユダヤ人、商人に発行されたと推察されている。

いずれにせよ、何らの金属的基準も存在せず、硬貨の多くが、金や銀として徴収人に分類された所で、外国の金貨や銀貨から模造されたせいで、いわゆる金貨は大抵、金をごく一部しか含有せず、銀貨に至っては銀がほとんど無かった。

金や銀、鉛、スズは余すことなく、配合の一部になる。それらは皆、価値のどんな目印も担うことができないため、その分類は全くの当て推量で、引換券である以外の妥当な疑問は成立しない。

300年の間(西暦457~751年)統治したフランク国王の下、硬貨の利用が非常に発達し、印字と合金の双方について多くの種類に富んでいる。

通貨単位は、ソルかスー(Sol、Sou)であり、スーを12ディナリウスに分割する計算用途があったにせよ、硬貨は、スーか1/3スーのトリエンス(Triens)を表示したと一般的に考えられている。

ほぼ純金からほぼ純銀まで、金と銀の合金にあらゆる濃淡がある一方、金メッキの痕跡を残す銀貨もある。それらは、国王自身やその行政官の幾人かに発行されるか、教会機関、街や城郭、野営地の管理官、あるいは商人や銀行家、宝石商等に発行された。

実際、この期間全体で、あらゆる形態の当局監督なしに硬貨を発行する完全な自由があった。この時代を通じて、通貨に関する法律が唯の1つも存在せず、この自由から生ずるどんな混乱も未だ耳にしたことがない。

全ての硬貨が引換券であり、重量や配合が重要な問題と見なされなかったことに疑問の余地はない。重要なことは、発行者の名称や特徴的な目印であり、発行者が決して不在にならないことである。



参考文献

硬貨の画像は、ウェブサイトAmerican Numismatic Society 『http://numismatics.org/search/』CNGを参照。
※1【エレクトラム】CNG identifier 1967.152.430
「この言葉の語源であるギリシャ語の
エレクトロン・・・・・・は、”琥珀”を意味する。金や銀と同じく、当初エレクトラムは地金として交易に使われた。しかしエレクトラムに含有される金と銀の量は一律ではなく、価値を簡単に決めることができなかった。」『貨幣の新世界史』カビール・セガール

「エレクトロン・コインは、紀元前6世紀の中葉以後、造幣されることをやめた。そのかわりに私たちは多くの地域で、銀、時には金でコインが作られるのを見るのである。…銀貨は、エレクトロン硬貨よりもずっと広い地理的範囲で作られた…」『お金の歴史全書』ジョナサン・ウィリアムズ

※2【ドラクマ】 CNG identifier 1957.172.1029 1953.117.226
「ギリシャの硬貨はほとんどが銀を材料にしている。…硬貨の計算単位に採用された
ドラクマ・・・・は、語源となったギリシャ語で”把握する”という意味で、そもそもは、穀物などの原始貨幣や銀塊を測るための単位として使われた。」『貨幣の新世界史』カビール・セガール

「ヘレニズム時代からコインはそれを作った地金よりも高い価値をその発行地域内で持っていたことを示唆する証拠がある。もしこれがより早い時代についても当てはまるならば、何故にかくも多くのギリシャ都市がコインを打刻したか、何故に銀貨が紀元前6世紀末から5世紀にかけてかくも急速に拡がったかについて納得のゆく説明を与えることができるだろう。

銀生産を引き受け、価値以上の国定のコインを流通させることによって国家には莫大な貯蓄と収入が集まったのである。このシステムが能率的に作動するためには、次の2つの条件が満たされる必要があっただろう。

その第1は、コインの形で支払いが行われるとき、地金の場合よりも過大な価値あるものとして受け取らせるために法的権威によって規定されなければならないことである。…第2に、コイン制度を施行する国家は、銀それ自体の取引であれ、その他の商品の取引においてであれ、商人にとって商業的に強い魅力を持たなければならなかったことである。さもないと過大に評価された銀貨を受け取ることによる損失を押し付けられることになったろう。」『お金の歴史全書』ジョナサン・ウィリアムズ

「たとえば、広く流通していたテトラドラクマ・・・・・・・は、4ドラクマに等しく重量が17.28gだった。…しかし最も有名なシンボルはフクロウで、使われた期間も長く、銀が枯渇するまで数百年ほぼ継続的に発行された。」『貨幣の新世界史』カビール・セガール

テトラ・ドラクマ銀貨(表/裏)
年代:紀元前454~449年
発行:アテネ

単位:テトラ・ドラクマ
重量(g):17.13

「アテナイはデザインとして兜をかぶったアテナ女神の頭像とアテナの聖鳥ふくろうとを使ったので、そのコインは『ふくろう』として知られるようになった。…このデザインは、紀元前6世紀後半に導入され、紀元前1世紀のアテナイの銀貨の終焉まで標準の型であった。」『お金の歴史全書』ジョナサン・ウィリアムズ

「フクロウ硬貨に関しては、貨幣の流通を政策が後押ししたのは間違いないが、金属主義者はこの硬貨に備わった固有の価値に着目する。貴金属が材料である点が評価され、貨幣として機能していた硬貨の利用価値に国が着目し、あとから合法化しただけだと指摘する。

一方、表券主義者もフクロウ硬貨の固有の価値は認めている。貴金属が使われていなければ、硬貨はほとんど評価されなかっただろう。しかしシニョリッジが常態化していたことを考えれば、硬貨には素材以外の価値が備わっていたと考えてもおかしくはない。

国家がフクロウ硬貨の発行者となり、支払い手段としての使用を正式に認めた結果、付加価値が備わったのである。アテネでは、硬貨がアゴラで支払い手段として受け入れられるためのガイドラインが設定された。さらに偽のフクロウ硬貨が禁じられたという事実からは、信頼こそが貨幣の価値の源泉だったとも考えられる。

硬貨は本物の法定貨幣として、みなから信用されなければ・・・・・・・・ならない。硬貨の合法性について疑念が持ち上がれば、アゴラには不安が広がり、通貨危機が発生して権力の弱体化につながりかねない。」『貨幣の新世界史』カビール・セガール

「国家の支出が拡大すると、流通する硬貨は一気に増えた。紀元前5世紀~3世紀にかけては何百万枚もの硬貨が発行されたと推定されており、実際、硬貨は史上初の大量生産品の1つと言ってもよい。硬貨が大量に発行された時期は、紀元前480年頃にアテネがペルシアと戦うために艦隊を建造した時期と重なる。」『貨幣の新世界史』カビール・セガール

※3【アス青銅貨】 CNG identifier 1949.100.25 1969.83.471 1969.83.369 1969.83.290
「ローマでは紀元前300年頃に硬貨の鋳造が始まった。…標準的な貨幣単位として流通していたのがアスという青銅貨で…金属の含有量は市場で変動を繰り返した。」『貨幣の新世界史』カビール・セガール

「帝国期におけるコインの歴史も、体系はそのままに、帝国の頽廃のリズムにあわせて質が悪化する歴史となった。青銅貨1アスが、273g➡109g➡27g➡9gとなるのは、青銅貨が記号貨幣となっていった跡でもあるが、帝国末期には2.3gにまで落ちた。」『文明の血液』湯浅赳男

貨幣・・計算貨幣・・・・との区別は、計算貨幣は記述・・あるいは称号・・であり、貨幣はその記述に照応するといえば、恐らく明らかにしうるだろう。ところで、もし同じ物がつねに同じ記述に照応しているならば、この区別は何の実際的な興味も引かないであろう。しかし、もし物は変わりうるがこれに対して記述は同一のままであるならば、その場合にはこの区別はきわめて重要でありうる。」『貨幣論Ⅰ:貨幣の純粋理論』ケインズ全集 小泉明・長澤惟恭 訳

4【ディナリウス銀貨CNG identifier 1944.100.81 1957.172.1535 1944.100.42684 1944.100.50280
「ヨーロッパのマネー制度は紀元前212年頃に改革されたが、それはハンニバル指導下のカルタゴとの長い戦争が惹き起こした国家の財政需要に応えるものであった。これがギリシャ・モデルで銀と青銅の打刻された小片からなるコイン制度を確立させたのである。

この新制度の主要なコインは青銅のアスと銀のデナリウス(元来10アスの価値が有ったからこの名あり)であった。この2つの関係は一定であって、次の400年にただの1度だけ変わった。紀元前140年にデナリウスの評価が16アスに高められたのである。

銀貨ディナリウス 価値(紀元前210年~):10アス 価値(紀元前140年~):16アス
銀貨セステルティウス 価値(紀元前210年~):2.5アス 価値(紀元前140年~):4アス」
『お金の歴史全書』ジョナサン・ウィリアムズ

デナリウス・・・・・の語源となったラテン語は、「10を含む」という意味があり、実際、1デナリウスは、10アス・・に相当した。」『貨幣の新世界史』カビール・セガール

「新しいマネー制度は紀元前210年ごろ導入されたが、それはそれまでのアスと呼ばれる青銅本位に代わって、より高価な銀貨デナリウスに基づいたものである。このデナリウスは、ローマで最も長く続いた貨幣単位の1つとなった。」『お金の歴史全書』ジョナサン・ウィリアムズ

「4世紀以上のあいだ、デナリウス貨幣に依拠したコイン制度は不変のままであったが、しかしコインに含まれる銀の成分は、ネロの治世(54~68年)から260年代中頃まで一貫して落ちてゆき、デナリウスに額面価値の2倍で取って代わったコイン、[放射光状冠]銀貨では銀を2~3%しか含んでいなかった。

テトクリス帝(271~274年…)のもとで、[放射光状冠]銀貨は最低点に達し、銀を0.5%も含まれていなかったので、その結果、これらのコインは大量に製造されたのである。」『お金の歴史全書』ジョナサン・ウィリアムズ

「フランクリン・ルーズベルト大統領は大恐慌の最中に政府の支出を増やしたが、それと同時に貨幣政策に変更を加えた。金に関する政策や購入計画によって、ドルの価値を意図的に下げようとした。

同様にネロも貨幣政策に積極的に取り組み、貨幣供給量の増加を目指す。具体的には…硬貨の供給量を増やす一方で改鋳を積極的に進めた。例えば、デナリウスの銀の含有量を97.5%から93.9%に、重量を3.9gから3.4gに減らし、貨幣としての価値を15%引き下げた。

…改鋳が積極的に進められたネロの治世は、ローマの貨幣史の転換点になった。貨幣は固有の価値を失っていくが、改鋳された硬貨が取引で使われる機会は増えていった。」『貨幣の新世界史』カビール・セガール

「またセステルシウス青銅貨も真鍮となり、デナリウス銀貨もだんだんと軽くなり、ついに銅貨となってしまった。」『文明の血液』湯浅赳男

※5【セステルティウス銀貨CNG identifier 1944.100.80
訳者は、原文セステルス(secterce)を、現在呼ばれている、セステルティウスと見做しています。
※6【アウレウス金貨
CNG identifier 1967.153.86
1,954.256.2、1,958.177.1、1,980.109.178
「特に、アウレウス金貨は劇的に貧弱になった。カエサルの時の8.1gから、アウグストゥスの時の7.8g、ネロの時の7.2g、カラカラ帝の時の6.55g、ディオクレティアヌス帝の時の5.45g、コンスタンティヌス帝の時の4.54g、ヴァレンティニアヌス帝の時の3.89gへと転落していったのである。」『文明の血液』湯浅赳男

「…イネスの2つの論文が、まもなく、三四半世紀もの間、視界から消え去ったことは驚嘆に値する。1,990年代以前の主要論文や関連書籍で、イネスの引用を見つけることができなかったのである。…イネスがクナップの研究に接触したことを示すものは何もないが…」『Credit and State Theories of Money, The Contributions of A. Mitchell Innes』L. Randall Wray,2004,p2

「しかし、私は、イネスによる1,913年と1,914年の論文が、20世紀に著述された貨幣の性質に関する論文の中で、最も優れたものだと確信している。」『Credit and State Theories of Money, The Contributions of A. Mitchell Innes』L. Randall Wray,2004,p223

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