現代貨幣理論MMTを支える理論の1つに、アルフレッド・ミッチェル・イネスの信用貨幣論『貨幣とは何か?』という論文(1913年)があります。この…
次のように6つに分け、大まかにページ数を振っています。
- ギリシャ・ローマの貨幣史(P377~P382)
- 欧米の貨幣史(P383~P390)
- アダム・スミスの誤謬(P391)
- 債権と債務の基本(P392~P394)
- 債権と債務の歴史(P394~P401)
- 結論 (P402~P408)
この記事はパート③を掲載しています。時間が無い方は、イラスト付きの『訳者あとがき』だけ読んでもOKです。
※1 参考・翻訳した文献『The Banking Law Journal, May 1913』
※2 個人の翻訳である点、何卒ご了承ください。翻訳上の誤りや分かりづらい点は、訳者に責があります。
※3 原文のイタリック体の箇所は下線表記、””箇所は「」表記
本文 (391P)
有史以前の時代、人類が物々交換で暮らしていたと仮定する場合、商業手法に関する現在の知識を育む所の自然に起こってきた発展とは、一体どのようなものか?
その難問は、次のようにアダム・スミスによって説明される。
「しかし、労働の分業が最初に起こり始めた時、交換のこの力は、頻繁に、その商取引において大きく妨げられ、苦境に陥ったに違いない。
1人の人間を想定すると、自らが必要とするよりも多い、ある特定の商品を所有しているのに対して、別の人間は、必要とするよりも少なくしか、その商品を所有していない。
その結果、この余剰分の一部を、前者は売却、後者は購入することに満足するだろう。しかし、万が一、後者が前者にとって必要としているモノを図らずも何も所有していない場合、交換は彼らの間で成立しない。
肉屋は、自らが消費できるより多くの肉を店に並べ、ビール醸造者とパン屋は各々、その一部を進んで購入する。
しかし、交換で提供するモノを何も所有せず、彼らの各取引における別の生産物を除くと、肉屋はその場で必要とするパンとビールを既に全部提供されている。
この場合、交換は彼らの間で成立しない。
肉屋が、ビール醸造者とパン屋の販売者であると申し出ることはできず、ビール醸造者とパン屋が、肉屋の顧客であると申し出ることも不可能である。その結果、彼等全員が相手に対して相互に役に立つことができない。
そうした状況の不都合を避けるため、社会の全期間に亘ってあらゆる賢明な人間が、労働の分業が初めて確立した後、自らの産業における特定の生産物に加え、大抵の人が、自分達の産業で生産した物との交換を拒みそうにないと想像したような、何某かの1商品(some one commodity or other)を一定量、彼によって始終所持するような方法で、事態を乗り切るために当然取り組まなければならなかったのである。」
「数多くの商品が、それがあり得るのは、この目的のために引き続き検討され、採用されたことである。
………全ての国々で、しかしながら、人類は、この採用に向けて、他のどの商品よりも金属に優先を与える抑えがたい動機によって、最終的に決定されてきたようである。」
アダム・スミスの見方は、パン屋やビール醸造者が、肉屋から肉を欲しているにも関わらず(後者はパンとビールを十分提供されているため)交換で提供するモノを何も所有していない場合、交換は彼らの間で成立しないという命題の真偽に依存している。
これが本当なら、交換の手段という教義は、恐らく、正しいことになるだろう。けれども、本当だろうか?
パン屋とビール醸造者が、正直な人間であると仮定するも、正直さは現代の美徳ではなく、肉屋は、それだけの肉を手に入れたという受領書をパン屋とビール醸造者から受け取ることができ、当然だと見通さなければならないことは、受領書がパン屋とビール醸造者に差し出された時は常に、パン屋とビール醸造者が、村の市場で流通する相対価格のパンやビールで、受領書を引き換える義務を、社会が認めることで一切となり、すると、私達はただちに適切且つ十分な貨幣を所有するのである。
取引は、この理論に沿うと「交換の手段」と呼ばれる何某かの中間商品と商品の交換ではなく、信用と商品の交換である。
訳者あとがき
論文の丁度真ん中で、ミッチェル・イネスがアダム・スミスと対決する山場になります。そこで、2人の議論を追っていきます。
アダム・スミスの主張
アダム・スミスは『国富論』の中で、3人の人物を登場させました。

3人の取引を例え話として、貨幣について以下のように考察しました。
まず、3人は自分の商品を持ち寄りました。

次に、肉屋が肉を渡すかどうかを考えました。
肉屋がパンとビールを持っていない場合、

アダム・スミスは、余った肉を渡すだろう、と推理しました。
1人の人間を想定すると、自らが必要とするよりも多い、ある特定の商品を所有しているのに対して、別の人間は、必要とするよりも少なくしか、その商品を所有していない。その結果、この余剰分の一部を、前者は売却、後者は購入することに満足するだろう。
そうすれば、肉屋はパンとビールを入手できるはずだ、と考えました。
今度は、肉屋が既にパンとビールを持っている場合…

余っていても、肉を渡さないだろう、と推理しました。
交換で提供するモノを何も所有せず、彼らの各取引における別の生産物を除くと、肉屋はその場で必要とするパンとビールを既に全部提供されている。この場合、交換は彼らの間で成立しない。
「パンとビールを必要としないため、肉を渡さない」と考える肉屋でした。
アダム・スミスの結論
このままだと交換が成立しません。そこで、アダム・スミスは…

肉屋が何か別の商品を受け取れば、肉を渡すはずだ、と推理しました。
そうした状況の不都合を避けるため、社会の全期間に亘ってあらゆる賢明な人間が、労働の分業が初めて確立した後、自らの産業における特定の生産物(例:肉)に加え、大抵の人が、自分達の産業で生産した物(例:パンとビール)との交換を拒みそうにないと想像したような、何某かの1商品(some one commodity or other)を一定量、彼によって始終所持するような方法で、事態を乗り切るために当然取り組まなければならなかったのである。
この別の商品こそ、貨幣である、と結論しました(商品貨幣論)。
肉屋に目を付けるミッチェル・イネス
アダム・スミスは「パンとビールを必要としないため、肉を渡さない」と考える肉屋を創作しました。

この肉屋に、ミッチェル・イネスは疑いの目を向けました。
アダム・スミスの見方は、パン屋やビール醸造者が、肉屋から肉を欲しているにも関わらず(後者はパンとビールを十分提供されているため)交換で提供するモノを何も所有していない場合、交換は彼らの間で成立しないという命題の真偽に依存している。これが本当なら、交換の手段という教義は、恐らく、正しいことになるだろう。けれども、本当だろうか?
イネスは、この肉屋を架空の人物だと疑いました。
肉を渡さない肉屋
自分の手元にある商品の有無に応じて、販売行為を選択する経済人
そこで、手元の商品に関係なく、肉を渡す理由を次のように主張しました。
ミッチェル・イネスの反論
ミッチェル・イネスは、この例え話を続けました。

肉屋が肉を渡すと、代わりに「肉を貰ったよ」という紙を受け取ります。
パン屋とビール醸造者が、今度は紙を差し出された場合

肉に相当するパンやビールと引き換える約束をします。
この約束を、肉屋以外の人も認めるようになると…

肉以外の紙も、受領されるようになります。
こうして、どんな商品も体現できる紙が社会全体で授受されると、

「何某かの商品を貰ったよ」という紙(受領書)が、世の中を流通します。イネスはこの受領書が貨幣であるとして、次の1段落の中で意見をまとめました。
肉屋は、それだけの肉を手に入れたという受領書をパン屋とビール醸造者から受け取ることができ、当然だと見通さなければならないことは、受領書がパン屋とビール醸造者に差し出された時は常に、パン屋とビール醸造者が、村の市場で流通する相対価格のパンやビールで、受領書を引き換える義務を、社会が認めることで一切となり、すると、私達はただちに適切且つ十分な貨幣を所有するのである。
アダム・スミスへの反論は、ここに凝縮されると言っても過言ではありません。
まとめ『貨幣は信用である』
イネスの肉屋は、手元に商品が有るか否かに関わらず、紙を受け取ります。

アダム・スミスの肉屋とは違い、欲しい人全員に肉を渡せる肉屋でした。
肉屋がパン屋とビール醸造者に、この紙を手渡すまでの間…

肉屋は、受領書(貨幣)を手元で保管し、パン屋とビール醸造者は、パンとビールを準備(労働)しています。
この物理的な状態(上のイラスト)を人間関係として可視化すると…

両者は「約束を背負う」「約束を信じる」という関係になります。
取引は、この理論に沿うと、「交換の手段」と呼ばれる何某かの中間商品と商品の交換ではなく、信用と商品の交換である。(信用貨幣論)
イネスは、取引当事者の関係を信用でつなぐ貨幣の機能について説明しました。
参考:アダム・スミスの話 変な所
アダム・スミスの話「肉屋がパンとビールを持っていない場合」を振り返ると、

この場合も、別の商品(=貨幣)を受け取るだろう、と仮定されていました。
しかし、どうして、パンとビールを持っていない肉屋が…

引き続き、パンとビールを受け取ってもよいはずでした。
元々、アダム・スミス本人が「肉屋がパンとビールを持っていない場合、それを受け取る」と考えていました。

そのため、商品としては同じでも(貨幣だと結論した)商品が、パンとビールより優先される理由を説明しなければならないはずでした。
未所持の商品を受領しない理由が不明
結果、商品を別の商品に置き換えただけで、貨幣が商品より優先して受領される根本的な理由は解明されませんでした。
参考:問い『貨幣とは何か?』
イネスの結論『貨幣は、肉を貰ったよの紙である』に対応する問いは…

この青い箱を貨幣と見立てた上での『貨幣とは何か?』でした。
対して、アダム・スミスの結論『貨幣は、別の商品である』に対応する問いは…

この黒い箱を貨幣と見立てた上での『貨幣とは何か?』でした。
2人は同じ問い(=箱)を立てているように見えるものの…

取引の状況が、肉屋の手元にある商品の有無に応じて異なるため、貨幣と見立てている問い(=箱)がそもそも違っていました。
結論以前に、問いが違う
どうして、こうなったんでしょうか?
イネスが立てた問い(箱)を巡る状況は、次のような取引でした。

みんなが貨幣を受け取る
これを根拠にして出した結論が『貨幣は、肉を貰ったよの紙である』でした。
対して、アダム・スミスが対象としたのは、みんなではありませんでした。

相手が持ち寄ったモノ(パンとビール)を持たない人(肉屋)が漏れていました。
一部の人が貨幣を受け取る
つまり、根拠に答えるための取引状況(=問い)が設定されていませんでした。
アダム・スミスの最初の話に戻ると…

お互いの商品を持ち寄って交換する『物々交換』から話を始めました。ここから、肉を渡したり、渡さなかったりする肉屋が創作されました。
そして、アダム・スミス本人が、肉屋の手元にパンとビールがない状況で成立すると考えた物々交換こそ…

問いから漏れていました。
いわゆる物々交換をする肉屋は、問われていない
以上をまとめると、アダム・スミスは、貨幣を受け取る人を一部見落としたまま、結論を下した後で振り返ることも無かったため、問いが実質的に変質し、物々交換は根拠にならないばかりか、議論と関係すらありませんでした。
参考:用語集『貨幣論』
これまで見てきた『貨幣とは何か?』という問いを貨幣論と言います。

この問いに対応する2つの結論は、一般的に次のように言われます。
- 信用貨幣論 =『貨幣とは、肉を貰ったよの紙だ』
- 商品貨幣論 =『貨幣とは、何か別の商品だ』
この分類は「問いは同じで結論だけ違う」ことを前提としています。
しかし、みんなが受け取る理由を探ったイネスの問いを貨幣論と見做した場合…

そうではないアダム・スミスの問い(=ブラック・ボックス)は、貨幣論ですらないと見做すことができます。
参考:用語集『債権と債務』
貨幣が、取引当事者を信用の関係で結ぶことを見てきました。

この「約束を背負う」状態を債務、「約束を信じる」状態を債権と言います。そして、3人の登場人物と「肉を貰ったよ」の紙を正式な名前にすると…
- 債務者 = パン屋、ビール醸造者
- 債権者 = 肉屋
- 債務証書=「肉を貰ったよ」の紙
以上、貨幣論に関する用語でした。債権と債務は続くPart④で議論が詳しく展開されます。