現代貨幣理論MMTを支える理論の1つに、アルフレッド・ミッチェル・イネスの信用貨幣論『貨幣とは何か?』という論文(1913年)があります。この…
次のように6つに分け、大まかにページ数を振っています。
- ギリシャ・ローマの貨幣史(P377~P382)
- 欧米の貨幣史(P383~P390)
- アダム・スミスの誤謬(P391)
- 債権と債務の基本(P392~P394)
- 債権と債務の歴史(P394~P401)
- 結論 (P402~P408)
この記事はパート②を掲載しています。
※1 参考・翻訳した文献『The Banking Law Journal, May 1913』
※2 個人の翻訳である点、何卒ご了承ください。翻訳上の誤りや分かりづらい点は、訳者に責があります。
※3 原文のイタリック体の箇所は下線表記、””箇所は「」表記
本文 (383~P390)
貨幣を鋳造する技術が向上し始めた時から、価値の金属的基準という証拠が無いことを示すため、初期の鋳貨に関する迅速な調査を実施してきたが、後続の歴史、特に革命に至るまでのフランス史は、そうした基準が過去に全く存在せず、何らの科学的理論もこれまで提示されることなく、基礎を悉く欠いていたと誇張なしに言えることを驚異的な潔癖さで実証している。
この論文で自らの大半を専らフランス史に限定した場合、他の歴史が私の主張に反証できるものを内包する訳ではない。
ー実に、イギリスやドイツ、イタリア、イスラム教、中国史で私に知られる全てが十分裏付けている。ーしかし、貨幣の様相に関する特徴的な現象は、フランスに強く現れており、他国の事例で見られる以上にその古い記録が含む証拠は豊富である。
さらに、フランスの歴史家は、私が知る限り、他国の歴史家より歴史のこの分野に関心を捧げてきた。こうして、通貨単位の一層明確で首尾一貫した説明、及び一方の商業と他方の貨幣制度との繋がりをフランス史から入手している。
ただし、貨幣の原理と商業の手法は、世界中のどこでも同じであり、どの歴史を研究の目的に選んでも、同じ結論に運ばれるだろう。
フランスの近代貨幣史は、8世紀末にカロリング王朝の継承から始まったと考えられている。
ドゥニエ銀貨(表/裏)※1
年代:752~768年
発行主:ピピン短躯王
単位:ドゥニエ
スーとその1/12等分であるドゥニエ(Denier)あるいはディナリウスは、計算貨幣の用途として持続し、20スーに分割される、より大きな通貨単位リーヴル(Livre)が付加され、最高単位となり、この単位名称は1,879年の革命に至るまで存続した。
ドゥニエ銀貨(表/裏)※1
年代:793~814年
発行主:シャルルマーニュ
単位:ドゥニエ
重量(g):1.77
イギリスのポンドは、20シリングと240ペニーに分割され、リーヴルとそれを分割したものに照応し、そこからイギリスの制度が由来すると見られる。
フランス貨幣制度に関する17世紀の歴史家ルブラン(Le Blanc)が、後々の権威が彼に追従し、イギリスの通貨ポンドは、銀1ポンドであるとイギリスの歴史家が擁護したように、通貨リーヴルは、元来銀の1ポンド重量であると断言した。
彼は、2,3の引用で自らの主張を裏づけるが、必ずしも彼が与えた意味に耐えるものではなく、その言説を有利にする直接的な証拠もない。
まず第1に、1リーヴルと等価の硬貨は1枚も無く、カロリング朝時代が終焉してからも暫くの間、1スーと等価の硬貨も全く存在しなかった。*2
その当時のロイヤル硬貨(Royal coin)のみが、私達が知る限り、ドゥニエとその価値であり、定まった価値を有したかどうかは、現在知られていない。
ドゥニエという単語が硬貨に適用される時、イギリスのペニーと同様、一般的に単なる硬貨を指すだけのことが多く、その価値への言及が無いまま、様々な価値の硬貨がこの名称で呼ばれた。
*2 13世紀のグロ・トゥルノワ(Gros Tournois)。しかしながら、1スーの価値で長く残存することはなかった。
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さらに、当時のドゥニエは、重量と何某かの割合で合金が変動し、商業重量に適用されたリーヴルという用語は、どの単一重量とも同一に取り扱われず、地域社会によって異なる唯の単位名称であることが同時代の資料から最終的に判明している。
事実は、通貨1リーヴルと重量1リーヴルの一致を証明する願望は、思考の父である。その主題に関して知ることは無く、少し時間が経って確実な知識を確かに得た時、通貨リーヴルと通貨ポンドが、決して銀貨の1リーヴル重量や1ポンド重量と等価ではないのである。
実際、確実に分かっていることは、フランスのソルとドゥニエ、イギリスのシリングとペニーは、リーヴルとポンドが供用されるまで長い間、計算単位であり、銀の重量と関連するはずが無かった。
カロリング朝の硬貨について、確実に分かっている事が2つだけある。
第1に、硬貨の鋳造が発行者に収益をもたらした。国王が臣下の1人に硬貨を鋳造する許可状を授けた時、収益とそこから生じる報酬に伴う権利が許諾されていると明言される。
2点目は、国民に硬貨を受領させる時を異にする点で相当の困難があり、国王の1人が、1枚の硬貨を拒む不法行為に見合う処罰を思いついた。拒まれた硬貨は、灼熱に熱せられ、罪人の額に押し付けられると、「血管は無傷故、肉体は滅びぬが、己の罰をその姿で晒さねばならない。」
額面を目一杯まで満たす金属価値の硬貨を鋳造することから生まれる収益は、あり得ないばかりか、むしろ損失であり、その不愉快な処罰が、国民にそうした硬貨を受け取るように強要する上で必要だとは到底考えられないため、額面価値を下回ったのは間違いなく、故に以前の時代と同じように引換券だった事はほぼ確実である。
されど、この王朝の国王は、硬貨の重量と純度の双方に用心深さを示す証拠があり、この事実によって、硬貨の価値は重量と純度で決まるという理論が真実味を帯びてきたと言わなければならない。
一方、ローマ貨幣鋳造所の精度にも同じく自負できるものがある。
鋳貨が卑金属である後続の時代、貨幣鋳造所の支配人に対する重量や合金、意匠に関する指示は、それによって硬貨の価値が影響を受けることはなくても、例に漏れず慎重だった。国民が本物と偽物の硬貨を識別できるようにするため、何よりも精度が重要だった。
西暦987年のカペー王朝の隆盛期から、硬貨の鋳造と決済時に採用される手段の知識は、日進月歩で明晰になっている。
フランス近代史家の研究によって、豊富な情報を手に入れ、その知識が貨幣の問題を適切に理解する上で絶対的に欠かせないにも関わらず、残念ながら経済学者に無視され、彼らの発言が史実の間違った見解に基づく結果を伴い、それは金属的基準が存在するという意見を許容してきた事実の歪曲によるものに過ぎない。
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封建時代を通して、硬貨を鋳造する権利が、国王のみならず、大規模な封建領主の財産にも帰属していたため、フランスではロイヤル硬貨に加え、80の鋳貨が、貴族や聖職者に発行され、各々が他と完全に独立し、重量や単位名称、合金、印字に関して異なっている。
それと併行して、20以上の相異なる貨幣制度が存在していた。
各々の制度は、その単位として、リーヴルとそれを再分割したソルとドゥニエを有しているが、リーヴルの価値は、国内の地域によって変化し、それぞれのリーヴルが、リーヴル・パリ、リーヴル・トゥール、リーヴル・エステヴェナンテ(livre parisis, livre tournois, livre estevenante)等の特徴的な称号を持っている。
これら20以上のリーヴルは、各々の価値が他のいずれとも違い、しかもその間の関係は時代によって変化した。
例えば、リーヴル・デ・ターン(livre de tern)の価値は、13世紀前半、リーヴル・トゥールとほぼ同じである。ところが、1,265年にトゥールの1.4倍、1,409年にトゥールの1.5倍、1,531年からその消滅までの間、トゥールの2倍である。
13世紀初頭、リーヴル・トゥールの価値は、リーヴル・パリの0.68倍だが、50年後はリーヴル・パリの0.8倍である。つまり、5リーヴル・トゥールは、4リーヴル・パリと等しく、その比で固定され続けたと見られている。これら2つの単位は、両者とも当局の会計で広く利用された。
ユーグ・カペーからルイ14世(1,638年)の時代まで、凡そ全ての鋳貨は、その大部分が銀を半分未満しか含有していない卑金属であり、西暦1,226年に聖ルイ9世が即位するまでの少なくとも2世紀に亘り、王国全体で良質な銀貨は恐らく1枚もなかった。
こうして、封建時代のフランス財政、及び鋳貨の品位低下に関する歴史家の根拠がない非難をどうやら惹起してきたと思われる物の最も著しい特徴に思いが及ぶ。
硬貨は額面価格を打刻されず、グロ・トゥルノワ(Gros Tournois)、 Blanc à la Couronne、Petit Parisis等の様々な名称で知られた。
グロ・トゥルノワ銀貨(表/裏)※2
年代:1,226~1,270年
発行主:ルイ9世
単位:グロ・トゥルノワ
重量(g):4.111
それらは、裁量的な価値で発行され、国王が貨幣の欠乏した状態にある時、「貨幣を変えよ(mua sa monnaie)」の物言い、換言すると、硬貨の名目価値を削減するように命じた。
これは、人々に渋々従われた完全によく認知された課税手段であり、国王が乱用した他のどの税制にも不平を鳴らすように、その処置が頻繁に繰り返される時だけ文句をつけた。
この課税制度がどう機能したかは、後で説明されるだろう。現時点で念頭に置くべき重要な点は、―現代の研究者によって豊富に証明されている。―硬貨の価値を変更しても、物価に影響を与えなかった事実である。
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国王の中でも、フィリップ4世(Philippe le Bel)とジャン2世(Jean le Bon)は、絶えず続く戦争で財源を何時も使い果たした状態になり、鋳貨をしきりに「非難」し続け、こうして異なる印字の新規硬貨を発行し続けている間、制度が深刻な乱用状態に陥るまで、今度は逆に非難された。
この環境下で、硬貨はもう安定した価値を持たなくなり、しばしば日毎に、そして通常は頻繁に変動する市場価格で売買された。硬貨は、内在価値を超える名目価値で決まって発行され、超過額は始終変動した。
金貨の名目価値が、銀貨の名目価値と一定の比率を支持しなかったため、金と銀の間に存する比率を計算しようとした歴史家は、驚くべき結果に導かれた。
比率が1以上に対して14や15の時もあれば、別の時には、金の価値が銀の価値を優位する場合が見た目にほとんどなかったのである。
事実は、公定価値は純粋に恣意的であり、硬貨の内在価値と関係ない。実際に、国王が硬貨を最低限の名目価値まで切り下げることを望む時、金塊価格でしか受け取らない布告を発する。
折に触れ、硬貨の価値変更に関する施行法令が非常に多かったため、専門家以外は、別々の発行による多様な硬貨の価値が一体幾らであるかを区別できず、それらは非常に投機的な商品になった。
確認されるだろうが、「変造」という制度の乱用に繋がった環境が、通貨単位の減価を惹き起こしたとしても、通貨単位リーヴルやソル、ドゥニエは、硬貨と完全に別個であり、硬貨の価値変動は、通貨単位に影響を及ぼさなかった。
ただし、重量と純度を削減する意味で、国王が鋳貨をわざと劣化させるという一般論は根拠を欠いている。
その反対に、13世紀末に向かうと、財政の安定性が、どういう訳か鋳貨の均一性に依存するという考え方が伸長し、この考え方は、鋳貨の内在価値ではなく、金貨と銀貨銘々が適切な比率に収まる額面価格を、少なくとも大きく超過することがないレートで、発行される鋳貨の適正に調整された制度の意義を示すために執筆された、ニコル・オレーム(Nicole Oresme)という人物(彼の時代では著名)による論文が公表された後に固く根を下ろした。そうして彼は、一定の価格で維持することに格別の意義を与えたのである。
賢明で用心深い財政家、聖ルイ9世(1,226~1,270年)の統治は、大いなる繁栄の時代を過ごしていたが、統治を継承する困難にあって、貨幣の購買力が異例の速度で減少した。
貨幣は、人々の言い伝えによると、既に「弱体化(faible)」し、彼らは、遺憾に思う聖ルイ9世の「強い貨幣(forte monnaie)」を要求した。
貨幣鋳造所から支払われる銀が大きく値上がりし、貨幣が新規で発行される度に、硬貨は以前より高く格付けされなければならなかった。
国王の顧問達は、オレームの教えに紛れもなく影響を受け、銀の値上がりの裡に物価が全般的に上昇する真の秘密があると信じていた。
そうして、蔓延している貧窮がもはや無視できないものになると、公式に銀の価格を削減し、銀の含有量に比して低いレートで新規硬貨を発行して、類似の割合で既存硬貨の名目価値を下げることで、「強い貨幣」を取り戻す企てが度々為された。
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ところが、物価はいまだ上方へ移動したまま、「通用は自由意志(cours volontaire)」という自発的なレートが、国民から硬貨に附与され、公定価値を上回っていた。
国王は「強い貨幣」を再び導入し、その中で、市場価格は削減されるべきであり、硬貨は公定価値でのみ流通しなければならないと有無を言わせず厳命した、と宣言した布告で王家の不満を表明したが、水泡に帰した。
言う事を聞かない商人は、厳罰をもって威嚇された。しかし、国王が脅せば脅すほど、混乱は深まるばかりだった。市場は見捨てられた。
善意から出たものでも間違った措置をやり通す無能な国王は、布告を解除するか、残された期間で死文を黙認しなければならなかった。
銀の値下げという手段を用いて「強い貨幣」に回帰する企ての最も有名なものは、財政事案に関するニコル・オレームの教え子、シャルル5世(Charles the fifth)によって導入された。
最も称賛に値する頑固さを引っ提げ、自らの要点に固執し、扱いにくい金属を強制的に以前の価格に戻すことができると説得した。
硬貨が流通から消滅するにつれ、名目価値より高い金塊価格が原因で、国王は勇ましくも、臣下と共に自らの銀食器を鋳造所に捧げ、硬貨を偽造した近隣の君主を破門するようにローマ教皇を説得し、あるいは少なくとも、フランスで流通するより価値が低い硬貨を製造した。
16年間の統治で格闘を続けたが、企ては失敗に終わり、人々が歓声を上げる中、彼の死で中止された。それは押し並べて、人々の最も強い抗議を呼び起こした通貨改革への試みだった、という関心を引く事実である*3。
さらに、そうした企ての1つは、パリで深刻な暴動が発生する原因になり、極めて厳然と鎮圧させねばならなかった。
課税の目的で、貨幣を故意に「変造(mutation)」する制度は、フランスに限らず、ドイツの至る所でも日常茶飯事であったのに対して、フランスの通貨で遭遇する現象は、あらゆる主要な商業国家や都市で出現している。
内在価値を上回る恣意的な価値に基づく硬貨の発行。その価値の安定性の欠如。法律で貴金属の価格上昇を防止し、政府に据え置かれた硬貨に対して、人々が硬貨に附与する自分達の相場を上げ下げする事を抑え込む政府の悪戦苦闘。こうした取り組みの失敗。
地域の通貨と比較して、その価値からすると軽い外貨の流通を防止する取り組み。政府の善意を裏切り、政府に発行された良貨の不可解な消失を惹き起こす目的で画策する邪なスパイがいるため、貨幣の枯渇が常態化しているという信念。
有害な活動家を見つけ出す無益な捜索、硬貨や金塊の輸出を防止する同じく不毛な港湾の見回り、―フランスのみならず、イギリスやドイツ連邦、ハンブルグ、アムステルダム、ヴェニスの歴史は、そうした事件で溢れている。
*3 ということは、貨幣の金属的理論に固執する者にとって奇怪である。ここで説明する余白はないが、実際はとてもシンプルである。
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これらの国々や都市の全てで、通貨単位が硬貨と別個であり、(それらが同名称の時も)貴金属価格の見るからに止まない変動に恐らく沿って、あらゆる立法手続きから独立した通貨単位から見て硬貨は変動した。
ターラー銀貨(表/裏)※3
年代:1,589年
造幣:ハンブルグ
単位:ターラー
重量(g):28.53
直径(mm):41
18世紀のアムステルダムとハンブルグでは、交換表が短い間隔で公表され、取引所に設置されることで、通貨単位に関して国内外双方の都市で流通する硬貨の現在価値を授けている。―アムステルダムのフローリン(Florin)やハンブルグのターレル(Thaler)は、いずれも純粋に架空の単位である。
フローリン金貨(表/裏)※4
年代:1,252~1,303年
場所:フィレンツェ
単位:フローリン
重量(g):3.5
直径(mm):20
こうした硬貨の価値は、ほぼ毎日欠かすことなく変動し、重量と純度だけに左右されることもなかった。重量と純度が似た硬貨は、帰属する国に応じて、別々の価値で流通した。
フランスやイギリスでは、1つの基準となる硬貨があり、残りの全てが基準の一定割合に相当する補助的な引換券であるといった考えは、近年まで無かったことを失念してはならない。真逆である。皆が、公平に良くも悪くもあり、法律に従う平等に良い法貨だった。
ローマの時代と全く同じように、過剰な価値の硬貨に金や銀を授ける義務はなく、これまで何も付与されなかった。
一部の硬貨は、その内在価値が名目価値とこれまでに一致したり、超過したりする唯一の理由は、貴金属価格の絶え間ない上昇か、(同じ結果をもたらすこと)通貨単位の継続的な減価が原因である。
たとえ、封建時代のフランスと18世紀の北アメリカより大きな状況の不一致を思い浮かべることが難しくても、昔のフランスとアメリカ合衆国の植民地時代や黎明期の新世界を巡る貨幣の状況に、幾つかの点で密接な類似を観察できるのはやはり興味深い。
1ポンド紙幣(表)※5
年代:1,771
発行主:ニューヨーク
単位:ポンド
高さ(mm):65
幅(mm):98
そこではポンドが、嘗てリーヴルがフランスでそうだったように振る舞っていた。それは、全ての植民地とその後当面の間続く全州の通貨単位だが、その価値がどこでも同一だった訳ではない。
5シリング紙幣(表)※6
年代:1,762 1,771 1,778
発行主:ジョージア
ニューヨーク
サウス・カロライナ
単位:5シリング
例えば、1,782年の1ドル硬貨(the silver dollar)に相当したのは、ジョージアの5シリング、ニューヨークの8シリング、ニュー・イングランド州の6シリング、サウス・カロライナの32シリングと6ペニーである。
しかし、こうした様々なポンドのどれとも固定した関係を支える硬貨が無く、その結果、アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)が、造幣局の設立に関する報告書を著した時、計算単位とは何かを言葉にするのは簡単だが、「硬貨において、単位として考えられるものをはっきりと述べることは等しく容易ではない。」と自らの立場を表明した。
彼が言う通り、その点に関する正式な規則が無かったため、慣習法から暗示され得るだけだった。彼は、全体として、単位の地位に最もふさわしい硬貨は、スペイン・ドルであるという結論に達した。
ところが、「硬貨の種族は、重量や純度に応じたどんな固定的価値や標準的価値も持つ訳では決してない。しかし、どちらとも関係がない話によって、流通は容認されてきた」事実によって、彼がドルを有利にするために行った議論は、自身が言う通り、その重量の大半を失っていた。
この環境に惑わされ、金が2つのうち変動が少ない金属である事実を悟ると、ハミルトンは、アメリカ合衆国の通貨単位がどちらの貴金属に今後「編入される」べきか決断するのに葛藤し、最終的にどちらにも優先を与えることなく、複本位制(bi-metallic system)を創設すると結論したものの、実際は失敗に終わったことが判明したのである。
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商業と結びついた通俗的な誤謬の1つは、現代で貨幣を貯蓄する仕掛けは、信用と呼ばれるものが導入され、この仕掛けが知られる以前は、全ての購入が現金、つまり、硬貨で支払われたというものである。
入念な調査は、まさにその逆が真相であることを示している。昔の硬貨は、商業で果たしている役割が今日より遥かに小さい。
実に、硬貨の数量が非常に少なかったため、小口の支払いを行う目的で様々な種類の代用貨幣を定期的に消耗する王家の家計と財産の必需品すら満たさなかった。
いかにも、鋳貨は微々たるものであったため、しばしば国王は、再鋳造と再発行のためにまとめて棒引きすることを躊躇わず、商業は従来通りに継続した。国民に硬貨を売却する現代の実務は、過去に全く知られてこなかったようである。
政府経費の支払い時に、金属が貨幣鋳造所に購買され、硬貨が国王から発行されており、大部分を私は、近衛兵の報酬に関する当時の資料から収集している。
最も理解し難いことの1つは、同じ1日でも、フランス貨幣鋳造所から貴金属に支払われた値段の桁外れな格差である。価格は、常時でなくとも、かなりの頻度で金属の市場価格と何らの関係も有していない事実が、著述家達に取り沙汰されてきた。
しかし、その根拠となるものを示す記録はどこにもない。
あり得る解釈は、金と銀の売買が、国庫の重大な債権者たる僅かな大銀行家の手中にあり、貨幣鋳造所による金属の購買が、金属の法外な値段を装って、債務の分割払いが行われた金融取引と関与していたというものである。
14世紀の遥か以前より、イギリスとフランス(私は、全ての国だと思う)では、政府が、それに対抗して繰り返し戦いを挑んだにも関わらず、ほとんど成果を伴わなかった、夥しい民間の代用硬貨が広く利用された状態で存在していた。
それどころか、19世紀に十分入ってからも、イギリスとアメリカ合衆国では、その利用が鎮圧されなかった。
私達は、政府が硬貨の鋳造を独占する現在の制度に馴染んでいるため、政府の主要機能の1つと見なすようになり、この独占が維持されなければ、何らかの破滅が起きるだろうという教義を固く信じている。
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歴史は、この論点を裏付けていない。
中世の政府が、独占を確立する企てを繰り返した動機は、フランスでは、とにかく臣民のために完全な庇護をしたのではなく、便利で(常々でなくとも)公共の充分な信頼に広く恵まれてきたような民間の代用貨幣を抑圧することで、頻繁な「変造」で必ずしも人気がない政府硬貨を、小売業がより一般的に利用する何某かの手段を持つ必要性を通じて、人々が迫られるように期待したことが理由の一部であり、加えて、礎石となる代用貨幣を大量に流通させることで、どうにかして、貴金属の価格を上昇させるか、寧ろ恐らく、鋳貨の価値を下げるのに一役買うと信じられたことが理由の一部である。
引き換え鋳貨(token coinage)の価値は、その産出量を厳密に制限することで初めて維持される、と今日の経済学者が教鞭しているのと全く同じである。
現代において、民間の代用貨幣が消滅した所以は、法律を執行する効率性が向上した以上に、自然の要因による所が大きい。改善された財政のおかけで、硬貨は以前は無いことが当たり前だった安定性を獲得し、国民はそこに自信を見出すようになった。
政府の主導力が途轍もなく成長したため、こうした代用貨幣は、どんな民間の代用貨幣も恵みに預かることができないような流通状態に至り、その結果、国民の評価で後者と置き換わり、少額の代用貨幣を欲する者は政府から購入することに甘んじる。
今や、硬貨が安定した価値を持たなかった事、何世紀もの間、1度も金や銀の鋳貨が存在せず、様々な合金による卑金属の硬貨のみが存在していた事、鋳貨の変更が物価に影響を与えなかった事、鋳貨が商業で相当な役割を全く果たしていなかった事、通貨単位が鋳貨と別個である事、金と銀の価格がその単位から見て常時変動していた事(これらの命題は、史実的根拠によって豊富に証明されているため、その真実に疑問の余地がない)が、真である場合、ひいては、貴金属が、価値の基準はおろか、交換の手段でもあり得ないのは一目瞭然である。
すなわち、取引とは、一般に広く受容される金属の明確な重量と商品の交換であるという学説は、追及に耐えることができず、売買と貨幣の性質に関する説明を別に探し求めなければならない、そして、それは間違いなく、商品と交換されるものである。
参考文献
硬貨の画像は、ウェブサイトAmerican Numismatic Society 『http://numismatics.org/search/』CNGを参照。
※1【ドゥニエ銀貨】 CNG identifier 1944.27.1 CNG identifier 1972.124.1
「このいわゆる『カロリング朝の幣制改革』は早くからぺパン短躯王(在位751~768年)によって準備され、シャルルマーニュによって完成されたものである。まず、ぺパンは、755年7月11日の法令で、ソリドゥスとリブラの関係を…定めている。さらに、造幣権を国王の独占としようとする志向を明確に示しているのが注目される。
比率 | 1 | 12 | 240 |
ラテン語 | ディナリウス | ソリドゥス | リブラ |
これを受けたシャルルマーニュの最も重要な決定は、780年のそれである。彼はそのなかで、1リブラ=20ソリドゥス、1ソリドゥス=12ディナリウスとする貨幣単位を確定し、古代ローマの327gに対して…1リブラの銀塊を240個に分割したディナリウス銀貨を普遍的、標準的貨幣と規定した。
さらに、805年に決定され、808年に再確認された法令によって、王宮で造幣されたディナリウス銀貨だけが帝国全体で通用するものとされたのであるが、これはその後、近代にいたるまで西ヨーロッパにおける貨幣制度の総枠を規定することになったのである。」『文明の血液』湯浅赴男
「この通貨体系が確立された後,各国において実際に発行されたのは 1 デナリウス銀貨という最小単位の銀貨のみであり,ソリドス,リブラを単位とする高額の銀貨が発行されたのは 13 世紀以降のことであった。それゆえ 12 世紀までの間,リブラおよびソリドスは貨幣体系上の計算単位という名目的な地位にとどまっており…」經濟學論叢『中近世欧州諸国における貨幣供給,小額貨幣と経済発展』2,011 鹿野嘉昭
「ペニーはローマのデナリウス銀貨のゲルマン語系の翻訳語で、イタリア語のデナーロ、フランス語のドニエ、ドイツ語のプヘニッヒ、英語のペニーとみな同じであるが、中世盛期まではほぼ中位の銀貨と理解しておいて大過なく、ペニーの時代とは中世ヨーロッパがいわば銀貨の時代だったといおうとしているのである。」『お金の歴史全書』ジョナサン・ウィリアムズ
比率 | 1 | 12 | 240 |
ラテン語 | ディナリウス | ソリドゥス | リブラ |
フランス語 | ドゥニエ | スー | リーヴル |
英語 | ペニー | シリング | ポンド |
「ぺパンよりシャルルマーニュに至るカロリング朝の努力によって造幣権が回収されたことは間違いなかったのであるが、教会=修道院の例外が国王大権による統一の崩壊の突破口となったのである。これによる封建的分解は早くもルイ敬虔王(778~840)の時代に始まる。
すなわち、872年に聖セバスティアンの聖遺物がソワッソンのサン・メダールに移された時に、そこの教会に造幣特権が与えられたのである。他方、伯が感触を世襲化し、公権力を私有化するにしたがって、造幣権も伯権力の一部として取り込むという横奪が9世紀末以後に一般化し、止めどなく進行してしまうこととなったのである。
…かくして、ルヴァッスールによれば、13世紀の初めには、フランスには80以上の造幣権所有者がいたと言われており、フランス国王もこのうちの1人でしかなかったのである。」『文明の血液』湯浅赴男
「このような社会経済構造のもとでカール(シャルルマーニュ)によって発行されたデナリウス・プェニヒ貨はその素材価値を超えた購買力を有する国家貨幣として流通し,勅令や寄進帳,さらには土地台帳などに額面の数字として計算貨幣化して登場することになった。
比率 | 1 | 12 | 240 |
ラテン語 | ディナリウス | ソリドゥス | リブラ |
フランス語 | ドゥニエ | スー | リーヴル |
英語 | ペニー | シリング | ポンド |
ドイツ語 | プフェニヒ | シリング | プフント |
その後,封建化の進行と共に政治的には帝国は領邦に分裂し,都市の登場と領邦国家の形成と共に貨幣高権も一層の分裂が見られるようになる。その結果,多数の小規模,さらにはごく小規模な閉鎖的な貨幣流通圏が成立した。プェニヒ貨は唯一の貨幣額面としてその後数世紀間流通を支配することとなる。しかしながらこのプェニヒ貨は価値貶質し,個々の貨幣領主の恣意的処置によって減価していった。…
この原初プェニヒであるカロリング・デナリウスの封建化過程はすでに,ルードヴィッヒ敬虔帝(814―840年:訳者補足、既出のルイ敬虔王を指す)の時代から始まった。…
このような封建化過程は,最初に教会や修道院に対する貨幣高権の授与という形で開始された。歴史上最初の事例は,833年コルヴィー修道院に対して帝国貨幣製造所を建設し,その収入を修道院に授与する特権授与証書である。…
その後順次,聖界諸身分は貨幣高権を獲得していった。最初は…資産価値請求権を授与されたに過ぎなかったが,その内に貨幣製造権を授与され…最終的には貨幣品位,貨幣重量の決定権をも獲得するようになった。
こうして新たに発行される貨幣は在地的性格を持つようになり,結果的には減価した新貨幣が流通するようになったが,11世紀までは領主支配権はいまだ十分制度化されておらず,王国支配との協力関係の下で,貨幣品位の一定の統一が維持され,価格体系が全国的に決定されていた。」
名古屋学院大学論集 社会科学篇『主権国民国家と計算貨幣によるヨーロッパ貨幣史―南欧型貨幣システムから北西ヨーロッパ型貨幣システムへの発展―』2,015 名城邦夫
「これに対して、最初の巻き返しを試みたのがルイ16世(在位1,108ー37年)である。…この国王の攻撃の1つの表現が『パリのドニエ』(denier parisis)の普及である。…
もちろん…ドニエにも地方差が出てこざるをえないのだが、ともかく『パリのドニエ』が1つの基準として押し出され、はじめはパリだけで打刻されていたが、フィリップ・オーギュスト(在位1,108ー37年)以来、他の地域の造幣もこれに準拠せしめられてゆく。…
しかし…彼はそれまでイギリス国王プランタジネット朝の領地であった地方を征服したが…この地方でそれまで通用していたドニエ制度を否定せず、1,205年、それを維持させることとした。このいわゆる『トゥールのドニエ』(denier tournois)は…それまでフランスの中部、西部、南部で広く普及していた貨幣であったので、彼も彼の後継者もあえて『パリのドニエ』を強制しなかったのである。
かくして、フランスには国王の2つの貨幣システムが共存することになり、聖ルイ王(9世)の1,226年にはそれぞれの価値はパリのそれ4に対してトゥールのそれは5と定められた。」『文明の血液』湯浅赴男
※2【グロ・トゥルノア銀貨】 CNG identifier 1967.182.72
「1,226年に導入されたフランスのグロ=トゥルノアは12ドゥニエ=トゥルノア(1スー)の価値があるとされ…」『お金の歴史全書』ジョナサン・ウィリアムズ
※3【ターレル銀貨】CNG identifier 1,957.117.6
「ニュルンベルクでは当初のプフント―プェニヒ計算貨幣体制から…1560年以後…グルデンが唯一の計算貨幣の地位を獲得した。…
ドイツ地域において計算貨幣グルデンとプェニヒ貨の関係によって地域の商取引を遂行し帳簿記載する慣習が16世紀中に成立した。グルデン貨の価値はプェニヒ貨の価値によって決定され,さらにこれらグルデン―プェニヒ体系の実体貨幣との相場によって実際の支払や商取引が実行されていったと考えられている。…
ニュルンベルクでは16世紀に至り1グルデン=252プェニヒの計算関係が成立し,当時地域ごとに異なる計算貨幣グルデン貨の価値によって各地域経済圏の価格体系が表現されることになり,商人たちはこの換算によって即座に取引のための知見を得ることができた205)。
ところで,16世紀の20年代以降になるともう一つの別の計算貨幣体系が使用され始める。先に見たように中央ヨーロッパの銀生産の拡大による金貨グルデンに代わる高額銀貨ターラーの使用によってもたらされたものである。このターラーの60分の1に当たるクロイツァーも製造され,こうしてターラー―クロイツァー計算貨幣体系が成立した。この間,ターラーもクロイツァーも急速に貶質したために1対60の関係はグルデン体系と同様に完全な計算貨幣体系となった206)。」名古屋学院大学論集 社会科学篇『主権国民国家と計算貨幣によるヨーロッパ貨幣史―南欧型貨幣システムから北西ヨーロッパ型貨幣システムへの発展―』2,015 名城邦夫
※4【フローリン(フィオリーノ)金貨】CNG identifier 1955.136.19
「1,251~2年にジェノアとフィレンツェはジェノヴィーノとフローリン金貨を発行した。後者は次の世紀に国際貿易において、極めて重要なものとなるはずで、ヨーロッパじゅうに金のコインという概念を拡め、多くのイミテーションを造らせるのである。」『お金の歴史全書』ジョナサン・ウィリアムズ
「フローリンは純粋の金で、フィレンツェの単位でははじめは1リラの価値を持っていた。」『お金の歴史全書』ジョナサン・ウィリアムズ
比率 | 1 | 12 | 240 |
ラテン語 | ディナリウス | ソリドゥス | リブラ |
フランス語 | ドゥニエ | スー | リーヴル |
英語 | ペニー | シリング | ポンド |
ドイツ語 | プフェニヒ | シリング | プフント |
イタリア語 | デナロ | ソルド | リラ |
「…13世紀半ば以降高額金貨が製造されるようになった。ところが,この時期になるとすでに貨幣高権が異常な分裂を示し,各都市各領邦は独自の貨幣を製造し錯綜混乱を呈し始めていた。
フィレンツェでは高額金貨フィオリーノ・ドーロ(金貨)は決済貨幣として使用されていたが,金貨の下位単位銀貨である中位銀貨グロッソや小額銀貨デナロの銀含有量が減価され金貨銀貨の法定・実勢相場の乖離が生じ,金貨の実勢価値を表示する計算貨幣が導入されるようになった。これがイン・フィオリーノである。国際決済貨幣フィオリーノ・ドーロに一定倍率をかけた固定相場が誕生し現金出納帳の金額欄に計算貨幣建て記載されるようになる。
フィレンツェでは1268年イン・フィオリーノ換算の記帳の最初が見られ,1278年カリマラ(毛織物商)ギルドが1.45イン・フィオリーノ(=1フィオリーノ・ドーロ)による帳簿記帳がなされるようになり100年ほど続くことになった。さらに,銀貨の貶質が進んだ結果,イン・フィオリーノは銀貨からの換算も必要となり全く新たな第三の抽象的な計算貨幣となった。
この貨幣はフィレンツェの国際取引の購買力を表す計算貨幣となり,商人や銀行等の帳簿で決済貨幣として使用され,為替手形や支払指図証によって振替,清算された。」名古屋学院大学論集 社会科学篇『主権国民国家と計算貨幣によるヨーロッパ貨幣史―南欧型貨幣システムから北西ヨーロッパ型貨幣システムへの発展―』2,015 名城邦夫
★「預金振替の制度は、近代的銀行制度の確立以前に、すでに早くより発展していたものである。すでに1,270年から1,318年頃にかけて、イタリアのヴェニスに発展したバンカス(bancus)にこの業務がみられるが、その後1,584年に創立された最初の公立銀行たるヴェニス銀行、1,609年創立のアムステルダム銀行、1,619年創立のハンブルグ銀行、あるいは1,635年創立のアムステルダム銀行、等々、これらすべての公立銀行は、いずれも純粋の預金銀行=振替銀行(Girobank)であり、為替銀行(bank of exchange)であった。
それらは当時その地に流通していた雑多な貨幣の預託を受け、これを、標準となる帳簿上の貨幣(bank money、これは信用貨幣としてのわれわれの銀行貨幣とはぜんぜん異なる)に換算して預金者の預金勘定に振替えたのである。これらはたんなる貨幣保管の業務と振替や送金=為替などの貨幣出納の業務とを行うだけであって、受け入れた貨幣を貸付けたり、さらにすすんで貨幣に代わる信用諸証券の発行・貸出をなす制度ではなく、したがって、銀行という名称はつけてはいても、その内実はたんなる貨幣取扱業者にすぎず、近代的信用制度としての銀行とは本質的に異なるものであった。」『貨幣論』麓健一
【振替制度】
「振替制度は、ドイツをはじめとして、イタリア、フランスなどのヨーロッパ大陸諸国で発達したものである。この制度では、支払人が振替票(振替指図書または振替請求書)を銀行に送付し、これにもとづいて銀行は、指図金額を支払人の預金勘定から受取人の預金勘定に移し、その旨を受取人に通知する。支払はこうして銀行の帳簿振替によって決済される。
当初この振替制度は、同一地の同一銀行における預金者間の決済に用いられたが、銀行間の振替取引契約にもとづく振替網の形成・拡大によって、取引銀行を異にする者の間で行われるようになった。なお、振替業務自体については、近代的な信用制度の確立以前に、17世紀に設立されたアムステルダム銀行やハンブルグ銀行などによって、すでに行われていた。
これらの『銀行』は、当時その地に流通していた雑多な貨幣の預託をうけ、これを標準となる帳簿上の貨幣単位(bankmoney)に換算して預金勘定に記入し、そして預託者の請求によって他の預金者の預金勘定に振替えた。」『貨幣論概要』P129 原 薫 / 遠藤 茂雄
※5【1ポンド紙幣】 CNG identifier 0000.999.29188
※6【5シリング紙幣】 CNG identifier 0000.999.29579 0000.999.29185 0000.999.29151
「18世紀半ばになると、ニュージャージー州など一部の植民地では、ハードマネーに兌換できず土地の裏付けを持たない紙幣すなわち、”信用状”が使われ始めた。そして通貨不足が深刻になると、ヴァージニアをはじめ多くの植民地が同様の紙幣の導入を決断する。紙幣の大半にはポンドなどイギリスの貨幣単位が使われたが、1ポンドの価値は植民地ごとに異なっていた。」『貨幣の新世界史』カビール・セガール
「ドル銀貨の量目はいかにあるべきか決定するに当たり、ハミルトンは財務省にスペイン・ドルを任意抽出して計量させ、その平均純銀含有量が371 1/4グレーンであることを発見した。…この結果は371 1/4グレーンが将来の米ドルの基準とされた。
次に金ドルの量目はいかにあるべきか、金・銀の価値のヨーロッパにおける評価は、金が銀の15倍の価値があるとするジェファーソン並びにハミルトンの信念の基礎であったといわれる。かくしてドルの単位に匹敵する純金は24 3/4グレーンと定められた。けれども米国は、実際上1,848年までは金ドル貨を鋳造しなかったのである。
金・銀を互に一を他に有利にすることなく同一条件で処遇することは、後に両本位制と呼ばれるようになった。多くの専門家は両本位制を採用したことは重大な誤りであったと信じている。それを維持することは極めて難しい。というのは15対1の固定レートに影響を及ぼす金属の価格は始終変動したからである。」『西洋貨幣史』久光 重平