現代貨幣理論MMTを支える理論の1つに、アルフレッド・ミッチェル・イネスの信用貨幣論『貨幣とは何か?』という論文(1913年)があります。この…
次のように5つに分け、
- ギリシャ・ローマの貨幣史(P377~P382)
- 欧米の貨幣史(P383~P390)
- アダム・スミスの誤謬(P391)
- 債権と債務の基本(P392~P394)
- 債権と債務の歴史(P394~P401)
- 結論 (P402~P408)
この記事はパート⑤を掲載し、大まかにページ数を振っています。
※1 参考・翻訳した文献『The Banking Law Journal, May 1913』
※2 個人の翻訳である点、何卒ご了承ください。翻訳上の誤りや分かりづらい点は、訳者に責があります。
※3 原文のイタリック体の箇所は下線表記、””箇所は「」表記
本文 (394~P401)
何世紀もの間、私達が不案内である商業の主要道具は、硬貨でも民間の代用貨幣でもなく、割り符であり*5(Lat. talea. Fr. taille Ger. Kerbholz)、四角いハシバミの木(hazel-wood)の棒に、購入や債務の金額を指し示すある決まった方法で刻み目が付けられた。
債務者の氏名と取引の日付が、棒の両端部に記入され、刻み目が半分に切断されて、氏名と日付が割り符の両ピースに見えるような形で真っ二つに断ち割られた。
分割が、棒の付け根から約1インチの所で横切りによって中断されたため、ピースの一方は、ピースの他方よりも短い。
「ストック(stock)♰6」と呼ばれるピースの一方が、販売者や債権者に向けて発行されたのに対して、「スタブ(stub)」または「カウンター・ストック(counter-stock)」と呼ばれるピースの他方が、購入者や債務者に預託された。
こうして両方の半分は、債権と債務の完璧な記録であり、債務者は己のスタブによって、不正な模倣や割り符の改竄から保護された。
現代の考古学者の仕事は、最も遠い古代の数多ある物体に光を当て、それらが古代の割り符や酷似した性質の道具であると信頼できる形で発表される可能性がある。
そのため、商業が最も原始的な時代から信用を駆使して継続し、どんな「交換の手段」も付随しなかった事はほぼ疑い得ない。
イタリアの秘密財宝では、多くの場合、鉄で重くして合金化された銅の欠片が数多く発見された。
この最初期のものは、紀元前2,000年と1,000年の間、硬貨が導入される1,000年前に遡り、アエス・ルーデ(aes rude)と呼ばれ、形が定まっていないインゴットであるか、円盤や長方形のケーキ型に流し込まれている。
その後の断片は、アエス・シグナトゥム(aes signatum)と呼ばれ、その全てがケーキ型や平板に流し込まれており、様々な道具を担っていた。こうした金属片は、貨幣として利用されたことが知られ、その利用は硬貨の導入後も相当期間続いた。
*5 19世紀初頭まで、その利用が完全に廃止された訳ではない。
♰6 換言すると「資本」を意味する現代用語「株式」。
P395(19/32ページ目)
アエス・ルーデとアエス・シグナトゥムについての特徴的な点は、稀な例外を除くと、専門的に「ショート(short)」と呼ばれる、金属がまだ高温で脆い間に、断片が1つ残らず、製造時点で故意に砕かれたことである。
鑿(のみ)が金属の上に置かれ、軽い力で打撃される。次に、鑿はどけられ、金属がハンマーの打撃を通じて簡単に割れると、片方の断片は大概、他方の断片より非常に小さい。
破壊済の金属が、後世の分割されたハシバミの棒と同じ保護を債務者に与えているため、これが古代の割り符である以外の妥当な推論は成立し得ない。
ローマ初期の硬貨を鋳造する状況から示されるのは、硬貨の1片を砕く実務―上述の通り、引換券の特徴を豊富に示しているーは、硬貨の鋳造がより欠点の少ない打撃方法に代わるまで普及したことである。
古代ギリシャの植民都市タレントゥムである、現在のターラントでは、大量の銀塊(純金属または卑金属どちらかであるのか表明されていない)を含む貯蔵品が最近発見され、ギリシャ初期の硬貨で発見された物と似た目印が刻印されている。
その全てが、故意に砕かれた断片を有している。不揃いな鋸(ノコギリ)歯状の縁を残すように切断されて剥ぎ取られた断片と一緒に、薄い円盤状のものも発見されている。
ドイツの貯蔵品の中から銀を合金した延べ棒が、少量発見され、イタリアの銅塊と同時代である。完全な姿をしたものもあれば、片端が切り取られた1片を持つものもある。
古代バビロニアの最近発見された物の中で、圧倒的に普及したと判明している商業文書が、所謂「契約板(contract tablets)」や「シュバティ(shubati)の文字板」である。―シュバティという言葉は、それらのほぼ全てに現出し、「受領済(received)」を意味する。
この文字板は、最古のものが、紀元前2,000年から3,000年まで利用され、焼成したり、天日に干したりした粘土で、形と寸法が普通の固形石鹸と似、イタリアの銅塊と酷似している。
さらに数が多いのは「女性(she)」を単位としたシンプルな取引記録で、何らかの穀物であると考古学者に理解されている。
それらは、次のような目印が付いている。―
- 穀物の分量。
- 「シュバティ」や受領済という言葉。
- 授与者の名前。
- 受領者の名前。
- 日付。
- 受領者の目印、または国王が受領者の場合「書記官」や「召使」の目印。
この文字板と遭遇してきた頻度、材料となる物質の耐久性、銀行としての機能を果たしたと知られる寺院で保存される際の慎重さ、特に碑文の性質、以上のことから、それらが中世の割り符と現代の交換手形に照応し、言い換えると、購入品の決済時に購入者から販売者に手渡される簡素な債務承諾書であり、広く普及した商業道具と判断される可能性がある。
P396(20/32ページ目)
だが恐らく、その性質以上に一層説得力のある証拠は、文字板の幾つかが「容器(cases)」と呼ばれる、ピッタリと閉まる粘土封筒(envelope)の中に完全に封入され、文字板自体を調べる前に壊す必要があった事実に見出されなければならない。
この所謂「容器板(case tablets)」に関して、碑文が容器の表面に観察され、封入された文字板に再現されており、2つの注目すべき不作為を伴っている。受領者の氏名と印章の跡が、内側に見つからない。
容器を壊すことでしか触れることができない内部の文字板上に、取引の本質的な特徴が再現されているのは、他の事例と同じように、それが不誠実な輩の手に落ちた場合、文字板が不正に改竄される危険性から債務者を保護する目的であることは、言うまでもなく明らかである。
これら「容器の文字板」の注目すべき意義は、どう見ても債務者の所有状態を残す単なる記録として意図されたのではなく、署名と封印がされる記録文書であり、債権者に発行され、割り符と交換手形のように他人の手に渡る疑念がない事実にある。
債務が支払われる時、文字板を壊すことが慣習だと伝えられている。
尤も、そうした遠い昔の商業について大半の事をよく知らないが、実際に分かっていることは、大規模な商業が継続し、人の手を伝ってあちこち債権が移転するのは、現在の私達と同じようにバビロニアの人々にもよく知られていた。
私達は、国家の財政と国税の徴収に参画する大商人や銀行企業の信用取引を有しており、今日の銀行と同じように、中世の名高いジェノバとフィレンツェの銀行家も有していた。
中国もやはり、バビロニア帝国と同じ遠く離れた時代に、硬貨が存在するずっと昔から銀行と信用の手段を見つけており、中国史のほぼ全体を通して、私が覚えられた範囲で、硬貨は何時も単なる引換券である。
債権が、現金より遥かに古いのは間違いない。
この小旅行から遠く離れた時代の歴史に突入するまで、これからは私達と近い時代の取引手段を検討することに立ち返り、最も懐疑的な読者に信用の古代を説得するため、やはり非常に十分な期間まで伸ばして遡ろう。
割り符は、交換手形や銀行券、硬貨と同じように移転や交渉が可能な道具である。民間の代用貨幣は(少なくとも、イギリスとアメリカの植民地では)非常に僅かな金額― 0.5ペニーや1ペニー ―を中心に利用され、様々な商店主や商人によって発行された。
総論として、全ての商業は、何世紀にも亘って専ら割り符を使って継続したと言い表すのが正しい。そうした道具を駆使して、財の購入や貨幣の貸付が全て行われ、債務は1つ残らず清算された。
昔の手形交換所は、巨大な定期市場であり、そこへ募った大小様々な商人が割り符を持参してお互いの債務と債権を決済した。「司法長官」が、商業上の紛争に耳を傾けて漏らさず判決し「原告が希望する場合、商業法に沿って割り符を検認する」ために市場に配置された。
イギリス最大の市場は、ウィンチェスターのセント・ジャイルズであり、ヨーロッパ全土で最も有名なものは、恐らく、フランスのシャンパンとブリエで、そこへ渡来したのが、あらゆる諸国からの商人や銀行家である。
交換ブースが設営され、たった1枚の硬貨も使うことなく、債務と債権が莫大な金額で清算された。
P397(21/32ページ目)
これまで述べてきた市場の起源は、古い時代の彼方に失われている。記録を残す許可状の大半が、封建領主に市場を開催し、古代から伝わる市場慣行の維持を規定する権利を授けていることから、単に領主の地位を認可し、独占を与えただけの許可状より過去に遡ることを示している。
こうした市場が非常に大切であったため、人々とそこで交流している商人の財産は、どこでも丁重に扱われた。
戦争の間、通行許可証が通過しなければならない領地を持つ君主から交付され、移動中に加えられた危害に対して厳罰が課された。
それは、どちらか一方の市場で、債務を納付可能とする契約書を作成する際のごく一般的な慣行であり、債務が履行される通例の手形交換は、パガメンタム(pagamentum)と呼ばれた。
市場を開催する慣習は、中世ヨーロッパだけに留まらない。
古代ギリシャでは、パネジリス(panegyris)の名の下で開催され、ローマでは、ナンディナ(nundinae)と呼ばれ、中世でも多用された名前である。メソポタミアとインドで開催されたことが知られている。
メキシコでは、征服の歴史家によって記録され、それほど昔ではないエジプトの市場では、ヘロドトスとして知られる慣習が確認された可能性がある。
一部の市場では、債権と債務の決済を除く商取引が1つも行われなかったものの、大部分において活発な小売業が継続した。
少しずつ、政府は郵便制度を発展させ、強力な銀行企業が発達し、手形交換所としての市場の役割が縮小して、その目的で来訪されることもなくなり、祝祭の集会以外は何もない状態として長く続いた後、最終的にほんの少しだけが残存し、繁栄を謳歌した偉大さの名残りだけになった。
宗教と金融の関係は、注目に値する。商業文書の全てでなくとも大部分が発見されているのは、バビロニアの寺院においてである。エルサレムの寺院は、一部が金融機関や銀行であり、同様であるのがデルフォイのアポロ神殿である。
ヨーロッパの市場は、教会の前で開催され、聖人の名で称されており、祝祭日とその前後で開催された。アムステルダムでは、証券取引所が、あるいは悪天候の中、とある教会の面前で設立された。
それらは一風変わった寄せ集めで、金融や取引、宗教、酒宴のこうした古い市場は、後者が敬虔な神父の決して少なくない醜聞に対する教会の儀式としばしば切り離せないほど混じりながら、聖なる御名を酷く冒涜したがために、聖人の災いが共同体に降りかかることがないように戒めた。
宗教的な祝祭と債務の決済は、あらゆる市場の起源であり、そこで継続した商業が後々の発展であることは、私の考えではほぼ疑問がない。これが正しければ、宗教と債務履行のつながりは、信用の最古の、必要とあらば、一層の裏付けである。
P398(22/32ページ目)
政府が債権と債務を使って財政を運営する手段は、中でも興味深い。他の民間人と同じように、政府は、債務の承諾書―王室の財産やどこか別の政府部門、政府銀行に対する為替手形―を差し出すことで代金を支払う。
これは、中世のイギリスでよく確認され、政府が債権者へ支払うために用いた常套手段は、地代や他の収入を確保できる部門に対する「割り符の調達(raising a tally)」であり、すなわち、債権者に木製の割り符を債務の承諾書として差し出す方法である。
国庫の会計は、以下のような記述で埋め尽くされている。
―「トーマス・ド・ビーチャム(Thomas de Bello Campo)、ウォリック伯爵(Earl of Warwick)へ、潜水作業者によってこの日収集された割り符、同伯爵に配達される500マルクを収容している。」、「・・・へ、ロンドン港の小口顧客であるコレクター(Collectors)の名義で、この日収集された割り符1枚、40ポンドを収容している。」、制度は19世紀初頭になると最終的に廃止された。
民間人の場合、そうした承諾書が価値を取得する方法について既に説明してきた。
誰もが、売買に従事し、販売のために商品を製造し、土地を耕して農産物を売り、手仕事や知の作品、資産活用を糧にし、そうして提供したサービスに代金が支払われる事を可能にする唯一の方法は、他人から受けたサービスと同等の物を支払う時に自分が手渡した割り符を、購入者から受け戻すことである。
とはいえ、政府は販売のために何も生産せず、財産を殆どか全く所有していない。すると、政府の債権者に対するこの割り符は、何の価値があるのか?それは、次のようにして価値を取得する。
政府は、特定の選ばれた人間が、政府の債務者になることを法律で義務付ける。海外から財を輸入する何某の者は、全輸入に対してそれだけの分を政府に支払う義務がある、乃至土地を所有する何某の者は、1エーカーにつきそれだけの分を政府に支払う義務がある、と宣言する。
この手続きは課税と呼ばれ、こうして政府に対する債務者の地位を命じられた者は、建前上、政府に支払い義務がある債務を承認する割り符や証書の所有者を見つけ出し、彼らが割り符を手放すように仕向ける見返りとして、何らかの商品を販売したり、役務を提供することで割り符を手に入れなければならない。
これらが政府国庫に返還されると、税金が支払われる。これが文字通り真実かどうかは、昔の英国長官の帳簿を調べれば確認できる。彼らは内国税の徴収人で、歳入をロンドンへ定期的に持ち運ぶ義務があった。
徴収の大部分は常時、国庫の割り符から成り、当然の成り行きとして、硬貨がしばしば相当の数が有るにしても、差し当たり1枚有るのと同じく、全体は割り符で構成された。
国庫は、金や銀の受領、貯蔵、支払いが行われる場所である、という一般論は完全に誤りである。
事実、イギリス国庫の取引全体を構成したのは、割り符の発行と受理、割り符(tally)と対の割り符(counter-tally)、割り符2対の通称ストック(stock)とスタブ(stub)の比較、政府の債務者と債権者の会計記録、国庫返納時における割り符の解消にある。実際、それは政府の債権と債務の巨大な手形交換所である。
P399(23/32ページ目)
今や「貨幣の変造(mutations de la monnaie)」の効果を理解することが可能であり、中世フランス国王の財政支出の1つとして取り上げてきた。
彼らが発行した硬貨は、兵士や船乗りの日給といった小口払いをする債務の引換券である。彼らが引換券の公定価値を裁量的に削減する時、硬貨の所持者が保有する政府に対する債権の価額を同じ分だけ削減する。
それは、全く手荒な且つ準備を整えた課税手段であり、乱用されない旨を条件として、大勢の人々に及んだため、不公平なものではなかった。
昔の納税者は、イングランド銀行に対する為替手形の保有者を当日追跡する必要がないのと同様に、当然のことながら、割り符の所持者を実際に探し出す必要がない。
これは銀行家を経由して実行され、彼らは有史の初めから何時も金融上の政府代理人である。バビロンでは、エギビ人とマラシュ人の末裔、中世ヨーロッパでは、歴史に名を残すユダヤとフィレンツェ、ジェノバの銀行家である。
銀行取引がバビロニアのユダヤ人によってヨーロッパにもたらされた事は、ほぼ間違いなく、彼らはアジア沿岸のギリシャ植民地に広がり、西暦紀元の遥か以前より、ギリシャ本土と北アフリカ沿岸の街に定住していた。
いずれか西暦紀元の前か直後に、西方へ移動して、イタリアやガリア、スペインの都市で、彼等自身が創業し、たとえ歴史家が、ローマ征服の時代までイギリスに辿り着かなかったと信ずるにせよ、ガリアのユダヤ人が、ガリアに面するイギリス沿岸の街に仲介人を擁し、イギリス初期の硬貨が主に彼らの制作物である可能性が非常に高い、と私には思われる。
通貨単位は、単なる裁量的な単位名称であり、それによって商品が債権を単位として評価され、故に全商品価値の概ね正確な評価基準として役立っている。
ポンドやシリング、ペニーは、代数の単なるa、b、cに過ぎず、a=20、b=240cである(※訳者補足、bが脱字していると思われる)。
現在供用されている単位の起源だったものは、未だ知られていない。以前は、ある商品の一定数量や一定重量を表していたのかもしれない。
もしそうなら、現在と無数の世代に亘り、どんな商品も体現していなかった事実に相違ないだろう。かつては、単位が商品を実際に体現していたと仮定しよう。
例えば、物事の始めに、ある商人が、古代で多用された用語シェケルという銀の一定重量を単位として、顧客の帳簿を書き付けることが適していると考えたとしよう。言うまでもなく、銀は他と同様、1つの商品である。
法定通貨制度は存在せず、誰も債権納付金の受領を銀で強制されることがない以上に、債務を銀で支払う権利がない。今日と同じく、債務と債権がお互いに対して相殺される。
穀物の100ブッシェルと銀の1シェケルが等価であると仮定しよう。
その場合、2つの価格が変動しない限り、万事順調である。銀の重量1シェケルや穀物100ブッシェルを商人へ持って行く者は、公平に帳簿上で1シェケルの債権を受け取るだろう。
ところが、何らかの理由で銀の価格が下落したとすると、穀物の100ブッシェルは、今度は銀1シェケルとの交換ではなく、1.1シェケルとの交換になる。
P400(24/32ページ目)
すると、何が起こるだろうか?取引は、銀の取り扱いと全く関係がないにも関わらず、債権が銀のシェケルとして減額され、商人の債務者は同じ比率で入手するがために、商人の全債権者は不意に逸失するのだろうか?
無論、否である。商人は、帳簿をシェケルで書き付けることが便利だと思っているだけで、債権者が貨幣の1/10を失うことに同意するのは凡そあり得ない。これが起きている事である。
銀1シェケルの所有者は、その価格が下落すると、商人から、銀は割引価格になり、以後銀1シェケルにつき0.9シェケル分の債権しか受け取れない旨を通知される。債権の1シェケルと銀の重量1シェケルは、もう同等ではない。
1シェケルの通貨単位は、その名を担う金属の重量と固定した関係を何ら持たない事を生じさせ、商人と顧客の債務と債権は、銀の価格変動から影響を受けないだろう。
最近のある著述家は、ビーバーの皮で記帳されている勘定の1例に言及する時、この事例を取り挙げている。
現実の皮が価値の面で変動する一方、ビーバーの皮という勘定は、固定されたままの状態で2シリングと等しいため、現実の皮1枚が、勘定上、架空の皮数枚分に相当することになる。
金の価格を固定する現代の法律は1つ残らず、通貨単位の壊滅的な変動が、貴金属価格と何かしら謎めいた繋がりを持ち、その価格を制御して変動させないことを可能にさえすれば、通貨単位も固定した状態を維持するだろう、という中世後期にあった理論の残滓に過ぎない。
私達が、当時の状況を理解することは難しい。人々は、生活必需品が急に値上がりするのをよく目にしたため、自分の所得が商品に対して有する価値を日々把握できる者がいなかった。
それと同時に貴金属が上昇し、高級な金や銀で作られた硬貨が、異常に高い値段になっているのを目撃した一方、以前の価値で流通したものが、削り取られることで重量面で削減された。
彼らは、この出来事の間に確かな結びつきを見出し、ごく自然に貨幣価値の下落を金属価格の上昇に帰着させ、その結果として生じた嘆かわしい硬貨鋳造の条件と結びつけた。
彼らは、結果を原因であると勘違いし、この過ちを受け継いでいる。数多くの取り組みが貴金属価格を規制するために行われたが、19世紀まで何時も不首尾に終わったのである。
中世の貨幣が動揺した大きな要因は、貴金属価格の上昇ではなく、戦争の破壊やペスト、飢饉による債権群の減価である。
今日、これら3つの要因がヨーロッパを何度も何度も破壊した末の恐ろしい様子は、ほとんど伝わっていない。ある歴史家は、14世紀と15世紀におけるフランスの様子を次のように描写した。
P401(25/32ページ目)
「敵対国に対するイギリス軍隊の破壊は酷いもので、イギリスやフランスの軍隊、または「傭兵部隊」に比べると、自国でのフランス部隊の破壊はそれ以上に酷く、半端に訓練された兵士の流浪した一団の略奪は、まるで本能的な強盗連でより一層ひどく、これら全ての陰に隠れて、さらに酷かったのは、成るべくして、刑務所から解放されて非道の限りを尽くした犯罪集団と自宅を強盗されて怒りを爆発させた小作人の群団であり、隠れ蓑にした森や洞窟から打って出て、軍隊が足早に行進して破壊せずに残したものを焼き尽くした。
身分や年齢、性別は、そこでは関係なかった。ー仲間と敵の違いが何1つなかった。
フランスの歴史全体を通して、至る所で甚だ惨めな時代はなかった。 ・ ・ ・ ソンムからドイツの国境まで、300マイルという距離、国全体が棘と茂みの沈黙した混沌である。
人は、皆死に絶えたか、武装した人間の残酷な暴力から逃れるため、街の避難所に逃げ込んだ。探し回った避難所は大抵見つからなかった。
地方地区が損害を被るにつれ、街は疲弊し、狼の群れが、衝動に突き動かされ、森の食糧が尽きたことで、路上で餌を探し求めた。 ・ ・ ・ 城壁の外側の戦争が、内側の戦争をより狂暴に煽り立てた。飢餓が戦争の足音に近づいて離れなかった。
当時の年代記を作った者が『黒死病』や『ペスト』の名で総括した奇形の病が、飢饉から生まれ、一番高い城壁を飛び越え、最も強固な城壁を貫き、人の溢れかえった都市で猛威をふるった。フランスの人口の2/3が、算定され、戦争の恐ろしい自業自得やペスト、飢饉を前にして減少した。」
15世紀の苦難も、14世紀と左程変わらず酷いものであり、イギリスにもらされた光景はフランスと大差がない。
「一方、北方の国々は、イギリスの一端にあるランカスターの城壁の天辺とマージー川の土手から、他端にあるヨークの門とハンバー川の河口まで、スコットランド人に襲撃されると同時に、フランス人とフランドル人、スコットランド人、その他海賊が、イギリスの東や西、南にある海岸沿いの街を放火し、住民を殺戮し、奴隷として連れ去り、他の敵対する2ヵ国は、この国の上で好き勝手に振舞った。飢饉とペスト、戦争による収奪は、人類が到達できなかった物を破壊した。」
幾重にも亘り、国土は飢饉とペストに見舞われ、家畜伝染病が羊と牛の生命を無差別に奪った。
そればかりか、そうした惨劇が起こったのは、初期の時代に留まらない。30年戦争(1,618~1,648年)が終結したドイツの様子は、14世紀のイギリスとフランスに負けず劣らず悲惨だった。
買う事は、売る事で代金を支払われ、言い換えると、債務は債権で支払われ、前述した通り、債権の価値は、同時に債権者でもある債務者次第だった。
描き出してきたような状況では(たとえ、かなりの繁栄には小休止が存在することが愚問だとしても)商業が事実上の静止状態にあり、債権はほとんど価値が無かった。
それと併行して、政府は、兵力を維持して頻繁な軍事作戦を展開するために巨額の債務を累積させ、彼らに支払うべき税金を課すことができなかった。
そうした状況下で、債権の価値(つまり、通貨単位の価値)は下落しないはずがなかった。起こった出来事を説明するために、想像上の恣意的な鋳貨の切り下げを探し求める必要は全くない。
ここで読者は、過去の実践と現在の科学的理論がどのようなものであるかに関係なく、信用の手段を駆使することに加えて、決済を行う目的で今実際に金を確かに利用しているのだ、と反対意見を持ち出すかもしれない。
1ドルや1枚のソヴリン金貨は、彼が言う所によると、金の一定重量であり、それと一緒に債務を支払う法的な権利がある。
参考文献
※1【ターリー・スティック】
「12世紀の初めにイングランドのヘンリー1世が導入した、木の棒にもとづいた支払い方式だった。この棒はタリー(割符)と呼ばれて、ハシバミかヤナギを磨いて作られ、当初は負債を記録するために使われた。この棒には、はじめ負債の額を示す切り込みを入れた。…
タリーのいちばん上には、手のひらの厚みの幅になる切りこみを入れて1000ポンドとする。…1ペニーは木を欠けさせずに切れ目だけを入れて印をつける」タリーはその後、縦真っ二つに割られて、債権者と債務者がそれぞれ合計の一致する記録をもつことになる。債権者が保管するほうは「ストック」といい、他方よりわずかに長い。債務者はもう一方の割符の「スタブ」をもつ。」『貨幣の歴史』デイヴィッド・オレル著 角敦子訳
「中世イングランドの国家財政の運営において、財務府(Exchequer)が中心的な財政部局として機能していたことがよく知られている。…同制度は15世紀ランカスター朝時代には財務府の主要な会計業務方法として広範に用いられ、またテューダー朝期に入っても財務府の会計業方法の1つとして用いられていたのである。」『16世紀イングランド行財政史研究』井内太郎
「支払い指定制度とは、財務府出納部の受領・支払い手続きの1つであり、基本的には財務府出納部における現金の受領・支払いを回避するための制度であった。たとえば国王への債権を有するAという人物が、支払い指定制度により国王から支払いを受けることになったとした場合、理論的には以下のような手続きを踏むことになる(図表1)。
まず彼は国王から通常、…支払い令状(Warrant)を発行してもらう。
次にAはその支払い令状を携えて財務府の大蔵卿…の前に出頭しそれを提示する。
大蔵卿はその令状を承認すると、財務府管轄下の各種予定収入の一部をAへの支払いに割り当て、その細目が財務府の正式な会計記録である3つの受領記録…と支払い記録…に記録された。
またAに対しては、その細目が記載された支払い指定割り符…※が発行された。つまり、こうして支払い指定がなされたわけである。
Aは支払い予定日に、同割り符を持って、支払い指定された収入を担当する収入徴収官…のもとに直接に赴く。Aはそこで割り符と引き替えに割り符上に表示された金額の支払いを受けた。
※注釈:これに対して、財務府へ直接に現金が払い込まれた場合、受領割り符…が発行された。
一方、後日、収入徴収官が徴収金を納入し会計報告を行うためにウエストミンスターにある財務府出納部にやって来る。彼は支払い指定を受けた収入ならびにその支払いを終えたものについては、現金ではなく大量の支払い指定割り符のみを持ち込み、それらに基づいて支払い記録へ記入がなされた。
この一連の支払い指定の手続きを見て特徴的なことは、支払い指定割り符が、債権者に対して支払いが行われるまで、一種の債券証書としての役割を果たしていたということである。第2に受領・支払い記録の中には、財務府での現金の受領・支払いがなされたように記録されているが、実際にはそのお金は決して財務府には返ってこなかった。第3…」『16世紀イングランド行財政史研究』井内太郎
※2【アエス・ルーデ】
「古代ローマにおいて交換の媒体を果たしたのは、家畜と青銅片である。…そして紀元前5世紀頃になると、青銅が価値の尺度として次第に家畜にとって代わりつつあった。…この青銅片はアエス・ルーデと呼ばれ、単なる青銅の塊に過ぎなかったから取引の都度秤量する必要があった。
各地のかじ屋で製造され、おそらく4世紀を通じて貨幣的用途に供されたものと思われる。(B.C.449年の12表法には、秤と青銅片による売買契約方式が見える)」『西洋貨幣史』久光重平
「ローマ建国以来…さらには軍役や都市建設の勤務に対する報酬として計算貨幣体系の価値を有するとみられる金属貨幣がローマ国家独自に鋳造されたと考えられている。
これは,西アジアの権力の象徴を刻印し,法治による秩序形成の価値尺度として機能する打造貨幣を最も美的に発展させたギリシャ貨幣とはその形状,重量において相違し,とりわけ打造計数貨幣とは根本的に異なる秤量鋳造貨幣として製造されたことは特筆に値する。
これはヌミスマティクス研究では「重量貨幣」Schwergeldと呼ばれるものであり,その最初は多様な形態のアス・ルーデと呼ばれる青銅塊であり,この原初的な金属塊の価値は,いまだ統一的な硬貨名目が存在していなかったために計量して決定された。」『ヨーロッパ古代中世貨幣史 : カール大帝の貨幣改革まで』名城 邦夫
※3【アエス・シグナトゥム】
「中部イタリアとの商業取引が活溌になるにつれ、より貨幣的なものへの要請が強まり、次に登場するのがアエス・シグナトゥム(青銅貨錠)といわれる青銅を平らな桿状(バー)に鋳造したものである。これは約5ポンドの定量をもち、片面にのみ意匠が画されているもの(シグナトゥムの名称はここから起る)、中には均等に切り分けることを容易にするよう考案されているものもあった。」『西洋貨幣史』久光重平
「このアエス・ルーデの中にはアエス・シグナツムと呼ばれ,主としてローマで製造された秤量貨幣がある。…この棒状貨幣は本来5ポンド重量があったとみられているが,実際には様々な大きさがあった。
これらのアエス・ルーデは史料上ほとんど伝えられておらず,唯一紀元前406年ウェイイ攻囲戦で,ローマ軍の将兵に多数の秤量貨幣アエス・ルーデで報酬が支払われていたことが文書で証明されているだけである。
しかしながら,この事実はアエス・ルーデがそれ以前からかなり頻繁に使用されていたことを示しており…市民軍報酬の支払手段として使用されていたことは確実である。」『ヨーロッパ古代中世貨幣史 : カール大帝の貨幣改革まで』名城 邦夫
※4【粘土板と粘土封筒】(後日up予定)
「メソポタミア文明はエジプト、インダス、黄河など他の世界文明に比べて、常に物事の始まりとして引き合いに出される事が多い。…それはメソポタミア文明において世界で初めて文字が発明され、さらにその特有の楔形の文字が刻まれた粘土板(タブレット)が現代にまで鮮やかに、かつ大量に残されているからです。…
普通のタブレットは単に粘土を乾燥させただけの物ですが、重要書類は保存できるように焼いてありました。古くから文字による記録がある以上、メソポタミアで何かが起こると、どのようなジャンルでも世界初の記録になるのです。」『金融の世界史』板谷敏彦
「最古の楔形文書は、シュメールの都市ウルクの遺跡で発見されました。出土したのは、ウルク期後期に年代づけされているウルク第Ⅳa層と、次のジェムデド・ナスル期に年代づけされているウルク第Ⅲ層からで、これら2つの層から出土した楔形文字をあわせてウルク古拙文書(こせつぶんしょ)と呼んでいます。ウルク古拙文書の総数は、約5,000枚と言われます。そのおよそ85%は物と数量を記した記録で、残りの15%が文字リストです。」『メソポタミア入門』中田一郎
「恐らく、メソポタミア人によって作成された最も多数の商事記録の型は、領収証(受取証)たる粘土板であった。文字通り何千というこれらの粘土板が、考古学者たちによって今日までに発見されている」『古代メソポタミアの商業簿記』酒井 文雄
「…「封筒に入れられた粘土板」についてであるが,粘土板には「楔形文字」で記録,円筒印章を横に転がして押印するのだが,この粘土板を新たにパイ状に引き延ばした粘土製の皮膜で包み込もうというのである。この粘土製の封筒で包み込むだけでも,改竄されることは防止されるかもしれない。
しかし,再確認するためには,都度,粘土製の封筒を壊さねばならない。「いわゆる中味の要約といったところ」ではないが,前3300年頃に作成された粘土球を彷彿させるようではある。
「委託者」,「賃貸人」,「貸し手」である「商人」と「受託者」,「賃借人」,「借り手」である「取引相手」の商人の確認を得ながら,粘土板には「楔形文字」で記録,円筒印章を横に転がして押印したのと同様に,粘土製の封筒の表面にも「楔形文字」で記録,円筒印章を横に転がして押印しておこうというのである」「記録の起源と複式簿記の記録(Ⅲ)」土方久
「封球と粘土板とでは構造が違う。封球はトークンをいくつか入れて保護することが目的であるから中空であり、粘土板は、トークンがなくなって、当然のことながら中空ではない。封球も粘土板もほとんどが表面全体は印章の印影で覆われており、これも両遺物のもう1つの重要な類似点である。」『文字はこうして生まれた』デニス・シュマント=ベッセラ
※(補足:訳者は、イネスが言及している封筒を、封球ではなく、粘土板を包む封筒と解しています)
「トークンとは、いろいろな形をした粘土製の計算具(カウンター)で、近東の先史時代に物を数えたり会計管理をするのに用いられた。」『文字はこうして生まれた』デニス・シュマント=ベッセラ
「…経済活動の最初の証拠と知られている最古の文字が発明された。まだ絵画文字に近く、次第に楔形文字へと進化していった。しかし粘土板に文字を刻むのを発明する前により初歩的な記録を思いついた。
産物は、四面体、小玉、円板などの、おそらくその産物の特徴をあらわすと思われる、約束された一定の形の粘土の小さな物体で表現された。それは古代およびそれ以後ひきつづき使われた、ラテン語でカルクリcalculi(小石)と呼ばれるcalculus(計算)のために用いられた数え石と、同じ役割を果たした。
…会計係はこれらを小さな軟らかい粘土の袋に入れ、「玉(ビユル)」と呼ばれる形状のものにして、その上に彼の印を押した。多くの場合それで終わりであったが、スサではときどき内部に収められたcalculiの合計を玉の表面に小さな刻み目で彫り込んだ。
このようにして、すぐ合計が分かるようになったが、それを確認するためには首府の記録保管所に収められている玉を割らなければなならなかった。」『古代オリエント文明』ピエール・アミエ
「…本章では、トークンの形をした記号が押印された最古の粘土板を扱うことにする。…
…この研究に利用した押印記号のある粘土板は、完形・断片あわせて、総計約240点に及ぶ。…そのうち、スーサ出土90点は、1,912年~1,977年までの一連の発掘調査で発見されたものである。…
ウルクのアヌのジッグラド地区で発見された22点の石膏製の文書を除けば、押印記号のある文書はすべて粘土でできていた。これらの粘土板は小さく手の平に容易に収まる大きさで、平均すると、幅5cm、長さ4cm、厚さが2cmである。形はさまざまで…卵形もあれば、丸みのあるもの、四角や長方形などがあり…」『文字はこうして生まれた』デニス・シュマント=ベッセラ
「球状の球や粘土板の会計資料に印をつけるのに、シュメール人は隣国のエラム人と同様、沈め彫を施した小さな円筒形の新型の印章を採用した。この形は粘土板に非常に適しており、印影を得るには粘土板の上に印章を転がすだけで十分で、こうして今日使用されている印紙つき証書や頭書きのついた事務用便箋にあたるものができた。そして書記はあとからの偽造を不可能にする表示を、その粘土板に刻み込んだ。」『古代オリエント文明』ピエール・アミエ
「…今から約5,000年前のウルク…では、すでに「ハンコ」の1種である円筒印章が常用されていた。「円筒印章」とは文字通り「円筒形のハンコ」である。
ウルク文化期後半に成立したもので、形や大きさは私たちが普段使用している三文判と似たようなものが多いが、私たちのハンコは底面に名字や姓名を彫ったスタンプ型であるのに対して、シュメルのハンコの特徴は胴体部分にぐるりと図像や楔形文字が彫られていることで、これを柔らかい粘土板上に押し付けて転がすと、展開図柄が続けざまに表れるのである。」『シュメル神話の世界』小林登志子
「楔形文字の直接の先行形態は、トークン・システムであった。これら…さまざまな形をした小さな粘土製品は、先史時代の近東でカウンター、すなわち計算具としての役割を果たしたが、その起源は前8,000年頃から始まる新石器時代にまで遡ることができる。
それらは、最初は農産物の管理、ついで都市時代には用途が拡大して、工房で作り出された製品の管理など、経済上の必要に応えるために進化した。トークンの発展は、社会構造の発展と結びついており、集団の指導者の指導者の出現とともに始まり、その進化は国家の形成で頂点に達した。
…保管の1つの方法は、粘土の封球、すなわち中空の粘土球を使用する方法で、その中にトークンを入れて封印した。この封球の欠点は、中に入ったトークンが見えなくなってしまうことである。会計担当者は、この問題を、トークンを封球の中に入れる前にそれらを封球表面に押し付けて印影を残すことで、最終的に解決した。」『文字はこうして生まれた』デニス・シュマント=ベッセラ
「シュメール人…紀元前3000年頃には、通貨単位として銀1シェケルを使いはじめた。これは8.3グラム前後の銀で、純銀の指輪とだいたい同じ重さになる。国家により、銀以外のすべての物価がこのシェケルを単位に規定された。エシュヌンナ法典は、現在のバグダードに近い都市にちなんで命名され、さまざまな商品の価格を明記している。
…ただし、価格表がシェケルを尺度に定められていても、実際に本物の銀片と引き換えに品物が買われていたわけではない。…銀は未加工の状態で、ある程度流通していた。打刻もされていなければ、硬貨の形にもなっていない。だからむしろシェケルは、信用制度を成立させることになる計算単位だったと見るほうがよいだろう。」『貨幣の歴史』デイヴィッド・オレル著 角敦子訳
★「貨幣と計算貨幣との区別は、計算貨幣は記述あるいは称号であり、貨幣はその記述に照応する物といえば、恐らく明らかにしうるだろう。ところで、もし同じ物がつねに同じ記述に照応しているならば、この区別は何の実際的な興味も引かないであろう。しかし、もし物は変わりうるがこれに対して記述は同一のままであるならば、その場合にはこの区別はきわめて重要でありうる。」『貨幣論Ⅰ:貨幣の純粋理論』ケインズ全集 小泉明・長澤惟恭 訳
参考文献
「イネスは、初期の硬貨がその表面に何らの額面金額も印字されていない、と指摘した。その代わりとして、名目価値が君主によって告知され、政府支払部門で維持されていた。流通している硬貨の名目価値は、政府が納付金を受領する時の価値によって決定されていたのである。君主が発行済債権の価額を過剰だと認識した時…ごく単純に、発行済硬貨の公定価値を削減していた…。
そうすることによって、君主は「硬貨の所持者が保有する政府に対する債権の価額を同じ分だけ削減する。それは、全く手荒な且つ準備を整えた課税手段であり、乱用されない旨を条件として、大勢の人々に及んだため、不公平なものではなかった。」
要するに、政府は税率を上げる代わりに硬貨を「切り下げた」が、いつの間にか、政府債務の市場価値を押し下げていたー市場が物価を政府硬貨の観点から見て上方修正すると、たちまち、告知されていた通貨の切り下げが1晩で完了したのである。」『Credit and State Theories of Money, The Contributions of A. Mitchell Innes』L. Randall Wray,2004,p248
『以上の通貨政策と貨幣の関係に関わる内容は、沢山の初歩的な教科書にある記述と齟齬があり、そこでは、中央銀行が準備高を能動的に変化させることで「貨幣乗数」を通じて、広義の通貨量を決めている(3)。
その見方では、中央銀行が準備高を決めることで通貨政策を行っている。そして、ベース・マネーの広義の通貨に対する割合が不変と前提されているため、次に、銀行が貸出と預金を拡大させるにつれ、準備金が乗数化して銀行預金に非常に大きな変化がもたらされる。
その話の筋道は、どちらも現代の経済における貨幣と通貨政策の関係の正確な記述ではない。中央銀行は、望ましい短期金利をもたらすために、準備高を通例的に決めるのではない(4)。むしろ、物価ー利子率の設定ーに焦点を合わせている(5)』
イングランド銀行 季刊誌『現代の経済における貨幣創造』後半